第2話「幼女の体力はすぐ尽きる、されど神の手はブレず」
動物の咬み傷というのは、外科医にとって非常に厄介な代物だ。
牙の表面や口腔内には無数の細菌(パスツレラ菌や破傷風菌など)がウヨウヨしており、それが組織の奥深くに押し込まれる。表面だけを綺麗に取り繕って縫合しようものなら、内部で細菌が爆発的に繁殖し、数日後には足が腐り落ちて死に至る。
「さて、どこまで肉が死んでおるか……」
私は少年の腰にあった革袋(水筒)と、野営用の小さな鉄鍋を見つけ出し、急いで湯を沸かした。煮沸したお湯を少し冷まし、大量の流水で傷口の中から泥や唾液、ちぎれた肉片を徹底的に洗い流す。
この世界に「治癒魔法」なるものがあることは、前任者ミルゼの記憶で知っている。
だが、聞いたところによれば、それは「細胞を活性化させて傷を塞ぐだけ」のものらしい。
「ふん。馬鹿げた魔法じゃ」
私は鼻で笑いながら、熱で消毒したナイフを握り直した。
傷口の中に泥や細菌を閉じ込めたまま、表面の皮膚だけを魔法で塞ぐ? そんな真似をすれば、敗血症を引き起こして患者を殺すだけだ。傷の根本的な治療とは、感染源を取り除き、自己治癒力が働く環境を整えてやることである。
「少し痛むぞ、坊主。……まあ、気絶しておるから分からんじゃろうがな」
私はナイフの切っ先を使い、挫滅してドロドロになった壊死組織を迷いなく削ぎ落としていく。デブリードマン――感染を防ぐための、極めて重要な下処理だ。
ザクッ、ザクッと、躊躇いのないメス運び(ナイフだが)が続く。
少年が痛みに顔をしかめ、無意識にうめき声を上げるが、私の手は決して止まらない。
だが、問題が生じた。
「……はぁっ、はぁっ、ふぅぅ……っ」
息が上がる。視界がグラグラと揺れる。
精神の集中力は前世の全盛期そのものなのに、肝心の「器」である10歳の体が、まったくついてこないのだ。
栄養失調気味の細い腕は、少し力を入れただけでプルプルと痙攣しそうになる。前世では10時間越えの大手術でも平気で立ち続けていたというのに、今はたかだか数分の処置で、滝のような汗が全身から噴き出していた。
「情けない……っ、この程度の作業で、息切れとはな……!」
奥歯を噛み締め、己を奮い立たせる。
ここで私が倒れれば、この少年は死ぬ。
医者が患者の前で倒れるなど、万死に値する恥だ。
「舐めるな……儂は、東郷志津じゃぞ……!」
気力だけで筋肉を動かす。
少年の荷物の中にあった麻糸を煮沸し、同じく荷物にあった骨針(動物の骨を削った針)に糸を通す。太い血管を糸で結紮して縛り、出血を完全に止める。
そして、傷口の奥から層を重ねるように、丁寧に、かつ素早く縫い合わせていく。
皮膚の縫合は、あえて完全には塞がなかった。
内部で化膿した場合に膿を逃がすための「ドレーン(排液管)」の代わりとして、煮沸した布の切れ端を傷口の端に少しだけ噛ませておく。抗生物質がない現状では、感染症対策こそが命綱になるからだ。
「……ふぅ、よし。終わったぞ」
最後に、木の枝で作った即席の添え木を当てて固定し、布で全体をきつく巻き上げる。
ターニケット(止血帯)を慎重に緩め、傷口から新たな出血がないことを確認した瞬間――。
「……あ、がっ」
プツン、と。
張り詰めていた糸が切れたように、私の体からすべての力が抜け落ちた。
血まみれの両手をついたまま、その場にへたり込む。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、肺が酸素を求めてヒューヒューと情けない音を立てていた。
「疲れた……死ぬかと思ったわい……。いや、一度死んでおるんじゃがな……」
乾いた笑いを漏らしながら、私は大の字になって冷たい土の上に倒れ込んだ。
木々の隙間から、傾きかけた夕日がオレンジ色の光を落としている。
どうやら、数時間もぶっ続けで格闘していたらしい。
それからしばらく、荒い息を整えていると。
「……ん、うぅ……」
傍らで、かすかな呻き声が聞こえた。
少年が、ゆっくりと目を開けたのだ。
犬のような両耳がピクッと動き、黄色い瞳が焦点の合わないまま虚空を彷徨い……やがて、自分の足元、そして隣で倒れ込んでいる私を捉えた。
「……俺は……?」
「気がついたか、犬の坊主」
私は寝転がったまま、首だけを向けて答えた。
「魔獣に太ももを噛みちぎられておったぞ。運が良かったな。儂が通りかからなければ、今頃はあの世で三途の川でも渡っておったじゃろうよ」
「あ……魔獣……! そうだ、俺、森で行き倒れてるあんたを見つけて……助けようとしたら……」
少年の言葉に、私はピクリと眉を動かした。
なるほど、この獣人の少年は、前任者のミルゼを助けようとして、あの魔獣に襲われたのか。つまり、私が彼を助けたのは、巡り巡っての恩返しだったというわけだ。
少年は痛む体を無理やり起こし、自分の右足を見た。
そこには、粗末な布ながらも、完璧な力加減で巻かれた包帯と添え木があった。激痛はあるだろうが、血は完全に止まっており、熱も今のところ出ていない。
「魔法、なのか……? いや、でも、治癒魔法の光なんて……」
「馬鹿を言え。儂に魔力など微塵もないわ」
私は「よっこいしょ」と老婆のような掛け声とともに上半身を起こし、服の裾についた土をパンパンと払った。
「切って、洗って、縫って、縛っただけじゃ。人間の体など、理屈さえわかっていれば案外頑丈にできているものじゃよ」
10歳の少女が放つにはあまりに老成した、そして凄みのある言葉に、少年は目を丸くした。
彼の優れた嗅覚が、周囲に漂うおびただしい血の匂いと、私の小さな手が成し遂げた異常な事態を正確に悟らせたのだろう。
「あんた……いや、貴女様は……一体……?」
怯えと、それ以上の畏敬の念を込めて、少年が問う。
私は短く息を吐き、ニヤリと口角を上げた。
「儂か? 儂はただの、隠居を夢見るしがない老婆……いや、少女ミルゼじゃ。ちっとばかり、人の体を弄り回すのが得意なだけじゃよ」
こうして、元・天才女医と獣人の少年の、奇妙な主従関係が幕を開けた。
隠居生活? スローライフ?
そんなものは、すでに私の辞書から消え去ろうとしていた。




