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治癒魔法に見捨てられた辺境から始まる「現代医療」チート~寿命を全うした大先生は、隠居を諦めて最強の病院を創るそうです~  作者: RIU


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第1話「天才女医は隠居したい、けれど医者の本能は止まらない」

鼻腔をくすぐるのは、長年嗅ぎ慣れた消毒液のツンとした匂いではなく、湿った土と青葉のむせ返るような香りだった。

遠くで名も知らぬ鳥が鳴き、木漏れ日が瞼の裏でチカチカと踊っている。


「……ふむ。天国にしては、ずいぶんと生々しいところじゃな」


ゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに鬱蒼とした森が広がっていた。

起き上がろうとして、ふと違和感に気づく。

視点が低い。それに、体が異様に軽い。長年私を苦しめていた腰の痛みも、膝の軋みもない。


自分の両手を見る。

そこにあったのは、シミとシワだらけの老婆の手ではなく、白魚のように細く、まだ幼さの残る小さな手だった。

近くの水たまりを覗き込むと、銀色の髪に透き通るような碧眼を持った、西洋人形のような少女がこちらを見つめ返してきた。ひどく痩せ細ってはいるが、間違いなく美少女の部類に入るだろう。


「……なるほど。これが若い看護師たちが休憩室でよく読んでいた『異世界転生』というやつじゃな」


声に出してみて、自分の声が高く可愛らしいことに少し驚いた。

しかし、口をついて出る言葉遣いは、すっかり染み付いた老婆のそれだった。


私、東郷志津とうごう・しづは、現代日本で外科医をしていた。

それも、ただの医者ではない。天才と呼ばれ、神の手と持て囃され、数え切れないほどの命をその手で繋ぎ止めてきた。大学病院の外科部長まで務め上げ、退職後も僻地医療に身を投じ、つい先日、88歳で文字通り大往生を遂げたはずだった。


寝る間も惜しんで働き続けた、医療漬けの人生。

悔いはない。やるべきことは全てやった。


「うむ。神様からのご褒美じゃな、これは」


私は小さく頷いた。

ふわりと、少女の脳内に前任者――『ミルゼ』という名の孤児の記憶が流れ込んでくる。身寄りがなく、街を追い出され、この森を彷徨い歩き……おそらく、飢えと疲労で命を落としたのだろう。


「安心せい、ミルゼよ。お主の体は、この婆さんが大切に使わせてもらうぞ。……そうじゃ、決めたぞ」


私は小さな拳をぎゅっと握りしめた。


「今世は、絶対に働かん! 絶対にじゃ!」


前世はワーカホリックもいいところだった。24時間365日、常にポケットのPHSのちにはスマホのコール音に怯え、カップ麺を三分待つ間に緊急オペに呼ばれるような生活だったのだ。

もう十分だ。人の命を背負う重圧は、前世に置いてきた。


「魔法とやらがある世界らしいが……ふぬっ!」


記憶を頼りに魔力を練ってみるが、指先からはそよ風ひとつ起きない。

どうやら、この体には魔法の才能は微塵もないらしい。だが、そんなことは些末な問題だ。


「まあよい。魔法などなくても、キノコや木の実くらい拾えるじゃろ。人里離れた森の奥で、小さな小屋でも建てて、晴耕雨読のスローライフを満喫するのじゃ。怪我人が来ても知らん! 儂はただの可愛い10歳の幼女じゃからな! ほっほっほ!」


高笑いしながら立ち上がった、その時だった。


――ツン、と。

森の青臭い匂いに混じって、強烈な異臭が鼻腔を突いた。


「…………鉄の、匂い」


それは、生涯嗅ぎ続けた匂い。

新鮮な、動脈血の匂いだった。


「……気のせいじゃ。きっと野ウサギでも狩られたんじゃろ。自然の摂理じゃ。儂には関係ない」


踵を返し、匂いとは逆の方向へ歩き出そうとする。

前世の知識が、理性が、「関わるな」と警告している。10歳の、しかも栄養失調気味の少女の体で、血の匂いがする場所へ近づくなど自殺行為に等しい。野生の熊か、あるいは記憶にある『魔獣』とやらがいたら、一たまりもない。


しかし。

頭では逃げろとわかっているのに、足が、体が、勝手に匂いの元へと駆け出していた。


「ああもうっ! 医者の悲しいさがじゃなっ!!」


舌打ちしながら、もつれそうになる細い足で森を駆ける。

草を掻き分け、開けた場所に出た私の目に飛び込んできたのは――凄惨な光景だった。


巨大な狼のような獣が、首から血を流して息絶えている。

そしてその傍らに、一人の少年が倒れていた。

頭には犬のような耳、腰にはふさふさの尻尾が生えている。獣人の少年だ。年齢は12、3歳といったところか。


「おい坊主! 意識はあるか!」


危険がないことを素早く確認し、少年の側に駆け寄る。

声をかけても反応はない。顔面は蒼白で、冷汗をかいている。

私の目は、一瞬にして『隠居を夢見る幼女』のものから、『凄腕の外科医』のものへと切り替わっていた。


迅速に全身を視診する。

致命傷は右下肢(右足)だ。巨大な獣の牙が太ももに深く食い込み、肉を裂き、骨にまで達している。どくどくと、一定のリズムで赤黒い血が噴き出していた。


「大腿動脈の損傷……いや、すれすれで完全断裂は免れておるか。じゃが、出血量が多すぎる」


頸動脈に指を当てる。

脈拍は120以上、しかも触れるか触れないかほど弱い。呼吸は浅く、早い。


「典型的な出血性ショックじゃな。このままではあと数分で心停止するぞ」


冷静に現状を分析する私の頭の中で、絶望的な事実が羅列されていく。

ここは設備の整ったオペ室ではない。

メスもない。鉗子もない。輸血用の血液も、人工呼吸器も、電気メスも、抗生物質もない。

あるのは、魔力ゼロのひ弱な幼女の体と、前世の知識だけ。


少年の呼吸が、いよいよ小さくなっていく。

命の灯火が、今まさに消えようとしている。


「……ふざけるな」


私は、自分の着ていたボロボロの衣服の裾を、力任せに引き裂いた。


「儂の目の前で、患者が死ぬことなど許さん。相手が人間だろうが獣人だろうが同じことじゃ」


引き裂いた布を紐状にし、少年の右太ももの付け根――傷口よりも心臓に近い位置――に強く巻き付ける。そこらへんに落ちていた手頃な木の枝を布の結び目に通し、ギリギリとねじり上げた。

即席のターニケット(止血帯)による圧迫止血だ。


「よし、動脈性の出血は止まった」


だが、これは一時凌ぎに過ぎない。

早く血管を縛り、傷口を洗浄して塞がなければ、いずれ足は壊死し、最悪の場合は感染症で命を落とす。


ふと、少年の腰に粗末な狩猟用のナイフが帯びられているのが目に入った。

私はそれを引き抜き、刃の輝きを確認する。切れ味は悪そうだが、背に腹は代えられない。

手早く火を起こす手段を探す。少年のポーチを探ると、火打ち石と麻の繊維が出てきた。


「手際よくやるぞ、ミルゼ。たかが野外でのデブリードマン(壊死組織の切除)じゃ。アフリカの紛争地帯の野戦病院に比べれば、まだマシな方じゃわい」


震える幼い手をピタリと止め、私は火打ち石を打ち鳴らした。

ナイフの刃を炎で炙り、即席の熱消毒を行う。


「おい神様とやら。どうやら、儂の隠居生活は少しばかりお預けのようじゃ」


チリチリとナイフが焼ける音を聞きながら、私は薄く笑った。

体は10歳の少女でも、この両手に宿る技術は、数万の命を救ってきた『神の手』だ。


「さあ、オペの始まりじゃ」


深い森の奥深く。

異世界に転生した元・天才女医の、最初の手術が幕を開けた。

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