第37話「痙攣(心室細動)と、原始の除細動器(デフィブリレーター)」
バチンッ。
大動脈を遮断していた巨大なクリップを外した瞬間。
せき止められていた血液が、一気に滝のように逆流し、空っぽだった心臓の空洞を満たしていった。
しぼんでいた心臓が、まるで風船のように膨らむ。
どす黒い紫色だった心筋に、みるみるうちに赤みが戻っていく。
「(……さあ、目覚めろ!)」
私は息を呑んで、その肉の塊を見つめた。
しかし――十秒経っても、二十秒経っても、心臓はピクリとも動かない。
「だ、ダメです……! 先生、動きませんっ!」
「焦るな。低体温で冷え切った心筋が、急激な血流再開のショックで硬直しておるだけじゃ。ヒナ! 冷却魔法を解除しろ!」
「はいっ!」
ヒナが杖を引き、領主の体を覆っていた青白い冷気がスッと霧散する。
「テティア! 中庭から届いている熱湯じゃ! 滅菌した布に浸して、心臓の周りから体を温めろ!」
「わかっています! ザッシュ、手伝って!」
テティアとザッシュが、湯気を上げる熱い布を、開かれた胸の周囲に次々と当てていく。
商業ギルドが命懸けで運び込み続けている『熱量』が、領主の冷え切った体を急速に温め直していく。
そして、体温が三十度を超えようとした、その時だった。
ブルルルルルッ……!
突如、領主の心臓が不気味な震えを起こし始めたのだ。
それは「ドクン、ドクン」という規則正しいポンプの動きではない。心臓の表面が、まるで無数のミミズがのたうち回るように、バラバラに、そして無秩序に痙攣しているのだ。
「ヒッ……!? な、なんですかこれ! 心臓が細かく震えて……!」
「『心室細動』じゃ!」
私は舌打ちをし、素手(滅菌手袋)で直接、痙攣する心臓を両手でガッチリと掴んだ。
「冷え切った状態から急に温められたことで、心臓を動かすための『電気信号』がパニックを起こしてバグっておるんじゃ! このままでは、ただエネルギーを使い果たして完全に死ぬ!」
私は自らの両手で、心臓をギュッ、ギュッとリズミカルに揉みほぐし始めた。
私の手が物理的なポンプ(人工心臓)となり、強引に脳へ血を送り続ける。
「一、二、一、二! ……くそっ、直接マッサージでも痙攣が治まらん! 電気信号のバグを一度『強烈なショック』で完全にリセットせねば、元の鼓動には戻らんぞ!」
現代なら、除細動器(AED)のパドルを当ててボタンを押すだけだ。
だが、ここは異世界。コンセントもバッテリーもない。
「ヒナ! 雷魔法の魔石は持ってきたか!」
「は、はいっ! これです!」
ヒナが震える手で差し出したのは、荒ぶる雷のエネルギーを封じ込めた青い宝石(中級の攻撃魔法触媒)だった。
「ガルネット! 銀のメスを二本出せ! この魔石のエネルギーをメスに流し込めるように、即席の『電気パドル』を作るんじゃ!」
「えっ、メスで……!? で、でも、そんな直接雷の魔力を流したら、暴発して大先生の腕ごと吹き飛びますよ!」
ガルネットが血相を変えるが、私は心臓を揉み続けながら怒鳴った。
「私が指示した通りに作れ! いいか、魔石から直接銅線を繋ぐな。間に『濡れた布(抵抗器の代わり)』を挟んで、電気の威力を極限まで落とすんじゃ!」
電圧の調整などできない、完全な博打だ。
だが、やるしかない。
「……わかりました! やります!」
ガルネットは即座に自分のルーペを下ろし、凄まじい速度で動き始めた。
銀のメスの柄に銅線を巻き付け、濡らしたガーゼをクッションとして挟み込み、魔石へと接続していく。
細工師としての狂いのない指先が、わずか数十秒で『異世界初の除細動器』を組み上げた。
「大先生、できました! でも、一回こっきりです。布が焼き切れます!」
「上等じゃ! よこせ!」
私は心臓マッサージの手を止め、即席のメスパドルを両手に握った。
「全員、手術台から離れろ! 絶対に領主に触るな、感電するぞ!」
テティアたちが弾かれたように後退する。
私は、ブルブルと不気味に痙攣を続ける心臓の両端に、二本のメスの腹をピタリと押し当てた。
「(……頼む! 神様でも仏様でもいい、この心臓に元のリズムを思い出させろ!)」
私は、魔石のトリガー(魔力解放のスイッチ)を強く押し込んだ。
「通電ッ!!」
バァンッ!!!
手術室に、落雷のような轟音と強烈な閃光が走った。
領主の分厚い体が、雷の衝撃で手術台からバンッと跳ね上がる。
焦げた肉の匂い(オゾン臭)が、鼻を突いた。
「……っ!」
閃光が収まる。
私はメスを離し、煙を上げる心臓を食い入るように見つめた。
――止まっている。
先ほどまでの不気味な痙攣(心室細動)は、雷のショックによって完全にリセットされ、消え去っていた。
「け、痙攣が止まりました! でも、心臓も止まったままです……っ!」
ザッシュが悲鳴のような声を上げる。
そうだ。除細動器というのは「心臓を動かす機械」ではない。「狂った動きを一度完全に停止させ、心臓自身が持つ自力のリズム(ペースメーカー)の復活に賭ける機械」なのだ。
静寂。
手術室に、重く冷たい空気が落ちる。
「(……起きろ)」
私は、微動だにしない心臓を見つめた。
「(起きろ。純白の新しい扉が、お前の中にあるじゃろうが。目を覚ませ、領主)」
一秒、二秒、三秒。
やはり、無理だったのか。異世界の魔石の雷では、強すぎたのか。
テティアが絶望で顔を覆い、オスウェルがギリッと奥歯を噛み締めた、その時だった。
……トクン。
心臓の右心房のあたりが、微かに収縮した。
「あ……」
そして。
ドクン。
ドクン、ドクン。
ゆっくりと。
だが、先ほどまでの濁流のような『ザァァッ』という雑音は一切ない。
純白の生体弁(豚の扉)が完璧に血流を受け止め、押し出し、パタンッと綺麗に閉まる音。
ドクン、ドクン、ドクン!
それは、力強く、どこまでも澄み切った、完璧な生命の律動だった。
「……動いた」
ザッシュが、ポツリと呟いた。
「心臓が、動いてる……。雑音もない。真っ赤な血が、領主様の全身に回ってます……!」
「う、うわぁぁぁんっ! 大先生ぇぇっ!」
テティアとヒナが抱き合って号泣し、オスウェルが天を仰いで深く息を吐き出した。
ガルネットは、自分の作った即席の除細動器を見つめたまま、震える手で何度も頷いている。
私は、規則正しく脈打つ美しい心臓を見下ろし、血まみれの手袋を外した。
「……人工心肺なき、大動脈弁置換術。……これにて、オペ終了じゃ」
私がそう宣言した瞬間。
ルンデルの街の歴史に、いや、この異世界の歴史において、魔法という神の奇跡を『人間の医学と職人の執念』が完全に凌駕した、新たな伝説が刻み込まれたのである。




