第35話「予期せぬ石灰化と、窮地の神の手」
完全に血流が止まり、沈黙した心臓。
私はメスを滑らせ、心臓から伸びる最も太い血管――『上行大動脈』の壁を躊躇なく切り開いた。
「(砂時計の砂が落ちきるまで、残り九分!)」
切開した血管を広げ、心臓の奥底を覗き込む。
そこには、全身へ血を送るための極めて重要な扉、『大動脈弁』が姿を現した。
「……なんじゃ、これは」
それを見た瞬間、私は思わず呻き声を漏らした。
本来なら薄くしなやかなはずの弁が、まるで岩のようにゴツゴツと分厚く変形し、白く濁っていたのだ。
「先生、扉が……石みたいにカチカチになっています!」
「『石灰化』じゃ。長年の負担で、弁にカルシウムが沈着して骨のように硬くなっておる。これでは扉が閉まらんわけじゃ」
私は舌打ちをし、特殊なハサミ(剪刀)を突っ込んで、石のように硬くなった古い弁をゴリゴリと切り離していく。
「(残り七分!)」
神がかった手捌きで、古い弁をすべて取り除くことには成功した。
しかし――本当の地獄はここからだった。
「しまった……。石灰化の根が深すぎて、弁が付いていた『土台(弁輪部)』の形まで歪にひしゃげておる……っ!」
私は、テティアが用意してくれた『純白の生体弁(チタンの枠付き)』を、心臓の穴(土台)に当てはめてみた。
ズレている。
事前の想定では綺麗な円形だったはずの土台が、長年の病気で歪んで楕円形になっており、ガルネットが完璧な真円に作ってくれた二十二ミリの人工弁では、ほんのわずかに『隙間』ができてしまうのだ。
「くそっ! これでは駄目じゃ!」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
無理やり糸で引っ張って縫いつければ、隙間は埋まるかもしれない。だが、そんなことをすれば、歪んだ圧力に耐えきれず、血流を再開した瞬間に領主の脆い心臓の肉が千切れ飛んでしまう。
「大先生……砂時計、もう半分(五分)落ちました!」
「わかっておる!」
焦りが、私の冷静な思考を焼き切ろうとする。
解決策は一つしかない。この歪んだ土台の形に合わせて、人工弁のチタンの枠と豚の組織を『今この場で』数ミリ単位で削り、縫い直すことだ。
しかし、私一人では絶対に手が足りない。
心臓を支えながら、ミクロの縫製をやり直すなど、残り五分では物理的に不可能だ。
「(ここまでか……。やはり、異世界での開胸など、無謀な夢じゃったのか……っ)」
絶望の影が手術室を覆い尽くそうとした、その時だった。
「……大先生。貸してください」
私の真横。
完全に滅菌されたガウンと手袋を身につけ、息を殺して手術を見守っていた一人の少年が、静かに一歩前に出た。
特製の『拡大鏡』を額に装着した細工師、ガルネットだ。
「ガルネット……! お前……っ」
「土台の形は、この目で見ました。左側を二ミリ縮め、右側に一ミリの遊びを作れば、完全にフィットします」
ガルネットの瞳には、かつて死を待つだけだった虚弱な少年の面影はない。
自分の作った道具と技術で命を救うという、強烈な『職人の矜持』が燃えたぎっていた。
「俺の指は、もう絶対にブレません」
「……」
私は彼と一瞬だけ視線を交わし、血まみれの生体弁を、ガルネットの手に託した。
「頼む、ガルネット! 時間はあと三分半しかないぞ!」
「十分です」
神のメス(外科医)が絶望した局面に、神の指先(細工師)がメスを入れる。
究極のチーム医療が、限界の壁をぶち破ろうとしていた。




