第34話「胸を割るメスと、止まる血流」
真っ赤な線が胸の中央に走り、皮下脂肪と筋肉が左右にパックリと開く。
だが、冷気で血流が極端に落ちているため、出血は驚くほど少なかった。
「胸骨を割るぞ! グズガル、ノコギリじゃ!」
私はメスを置き、グズガルが打ち上げた医療用の手挽きノコギリ(胸骨鋸)を握った。
胸の中心を通る分厚い骨(胸骨)に刃を当て、体重をかけて一気に挽く。
ゴリッ、ガリガリガリガリッ!
処置室に、骨を削る生々しい音が響き渡る。
テティアとザッシュが顔を青ざめさせるが、私は手を止めない。胸骨を縦に真っ二つに切り裂いた瞬間、私はグズガルに向かって叫んだ。
「開胸器!」
「おうっ!」
切り開いた骨の隙間に、グズガル特製の肋骨開胸器の金属板がねじ込まれる。
そして、歯車の付いたハンドルを、ドワーフの怪力でギリギリと回していく。
メキメキメキッ……!
人間の分厚い胸の骨が、万力によって無理やり左右に押し広げられていく。
そして――ポッカリと空いた巨大な胸の空洞(縦隔)の中に、ついに『それ』が姿を現した。
「こ、これが……人間の心臓……っ」
ザッシュが息を呑む。
領主の胸の奥で、大人の拳よりも大きな肉の塊が、ビクン、ビクンと苦しげに脈打っていた。
周りの血管は風船のように膨れ上がり、逆流する血の圧力で今にも破裂しそうだ。
「テティア! 抗凝固剤を静脈に全量投与!」
「はいっ!」
テティアが、アイアンボアの肝臓から抽出した薬液を、点滴の管から一気に流し込む。
これで、これ以降どれだけ血が外に漏れようと、血管の中で血栓(血の塊)ができることはない。
「よし……血流を止めるぞ」
私は心臓の上部から伸びる最も太い管――『上行大動脈』の周りを指で慎重に剥離し、巨大な金属のクリップ(大動脈遮断鉗子)をガッチリと噛ませた。
バチンッ!
その瞬間、心臓から全身へ向かう血液の流れが、物理的に『完全遮断』された。
「ひっ……!」
「血が……止まった……」
ヒナの魔法で低体温になっているとはいえ、生きている人間の血流を完全に止めるという異常な光景に、仲間たちが恐怖で震える。
「まだじゃ。心臓自身が動いていては、中を開けられん。完全に息の根を止めるぞ」
私は、テティアが震える手で差し出した注射器を受け取った。
中に入っているのは、森の最深部に棲む『呪いの魔王』の毒腺から精製した、究極の心筋弛緩剤(心筋保護液)だ。
それを、クリップで挟んだ大動脈の根元から、心臓の筋肉(冠動脈)へ向けて一気に注入する。
「……っ!」
薬液が心臓に流れ込んだ瞬間。
それまでビクンビクンと暴れるように脈打っていた領主の心臓が、ブルブルと激しく痙攣し――。
ピタリ、と。
一切の動きを停止した。
「し、心停止……確認しました……っ!」
ザッシュが、震える声で叫ぶ。
胸の中には、ピクリとも動かない、ただの肉の塊と化した心臓があるだけだ。
人工心肺装置はない。今この瞬間、領主の脳に向かう酸素は完全にゼロになった。
「(ここからだ。私の『神の手』の、真骨頂を見せてやる!)」
私は、グズガルが作った『十分計の砂時計』を、バンッと音を立ててひっくり返した。
「タイムリミットは十分! これより、大動脈弁置換術を開始する! メス!!」
サラサラと落ちる砂の音だけが響く静寂の手術室で。
私は、完全に沈黙した心臓へ向けて、迷いなくメスを突き立てた。




