第29話「前世の狂気。『全身低体温法』と氷の魔法使い」
「ひゃ、ひゃいっ!?」
名前を呼ばれた氷の魔法使いヒナは、おどおどと杖を抱きしめたまま、処置室の入り口で固まっていた。
つい先日、冒険者パーティを「火力が弱すぎる」という理由で追放されたばかりの彼女が、領主の命を左右する大手術のキーマンとして指名されたのだ。無理もない。
「大先生……ヒナの魔法で、領主様を冷やすんですか?」
「うむ。お前たちもブラッドバンク(血液保管庫)で見たじゃろう。この子の魔法は、対象をただ凍らせるのではなく、『指定した温度を狂いなく保ち続ける』という、異常なまでの精密さを持っておる」
私はヒナの前に歩み寄り、彼女の細い肩に手を置いた。
「ヒナ。お主には手術中、領主の体に魔法をかけ続けてもらう。体温をゆっくりと、そして確実に『二十八度』まで下げるんじゃ。それ以上でも、それ以下でも駄目だ。一ミリでも狂えば、領主は凍死するか、手術中に脳死する」
「に、二十八度……っ」
ヒナはゴクリと唾を飲み込んだ。
「これまでは血液が入ったフラスコを冷やすだけでした……。でも、人間の体全体を、命ギリギリの温度で保ち続けるなんて……私なんかの魔力で、そんな大役……」
「出来るか出来ないかではない。お前がやるんじゃ」
私はヒナの目を真っ直ぐに見据えた。
「お前はもう、ただの追放された役立たずの魔法使いではない。我が『ミルゼ総合病院』における、最強の環境制御担当じゃ。お前の魔法がなければ、私のメスは一秒たりとも振るえん」
「先生……」
ヒナの瞳に、ポロリと涙が浮かんだ。
誰からも必要とされなかった自分の力が、天才外科医の命綱として頼られている。その事実が、彼女の中で眠っていた『魔法使いとしての誇り』に火をつけたのだ。
「……やります」
ヒナはローブの袖で涙を乱暴に拭い、力強く杖を握り直した。
「私、絶対に温度を狂わせません! 領主様の命、私の魔法で繋ぎ止めてみせます!」
「よし、よく言った!」
私が頷くと、処置室の空気が再び熱を帯び始めた。
絶望に打ちひしがれていたザッシュやテティアの顔にも、希望の光が戻っている。
「じゃが、タイムリミットの問題が解決しただけでは、手術は始められん」
私は黒板に向き直り、心臓の断面図の隣に、もう一つ別の絵を描き始めた。
「壊れた領主の心臓の扉(弁)を取り替えると言ったが、当然ながら代わりの『新しい扉(人工弁)』が必要になる。だが、金属やガラスで弁を作ると、血栓(血の塊)ができやすくて危険じゃ」
「それじゃあ、代わりの扉はどうするんですか?」
「生き物の臓器を使うんじゃよ。『生体弁』と言う」
私は黒板に『四つ足の獣』の絵を描いた。
「人間の心臓の構造に一番近くて、頑丈な弁を持っている生き物……それは『豚』じゃ。豚の心臓の弁を切り出し、特殊な加工をして人間の心臓に縫い付ける。それが、前世でも実用化されていた最も安全な治療法じゃ」
「豚の、心臓……!」
テティアが驚きの声を上げる。
「さらに、手術中にはもう一つ絶対に必要なものがある。血液が血管の外や、空気に触れても『絶対に固まらないようにする強力な薬』……抗凝固剤じゃ。これは、魔獣の新鮮な『肝臓』から抽出できる」
私は振り返り、処置室の奥で腕を組んでいた二人の男を見た。
「オスウェル、ザッシュ。お前たちの出番じゃ」
「おうっ!」
「はいっ!」
「森の奥に棲む『鋼鉄猪』を狩ってこい。ただし、魔法で消し炭にしたり、剣で滅多斬りにしては駄目じゃ。心臓と肝臓を、一切の傷なく『生のまま』持ち帰るんじゃ!」




