第27話「領主の凶報。心臓から聞こえる『濁った音』と、絶望の宣告」
輸血騒動から数週間。
私たち『ミルゼ総合病院』の運営は、かつてないほど完璧に回っていた。
ガルネットの顕微鏡による、ミクロの血液検査。
ヒナの魔法による、完璧な定温保管庫。
そして商業ギルドによる、一日たりとも遅れることのない物資の供給。
もはや、ここは辺境の街の小さな診療所ではない。
知識、技術、物流の全てが噛み合った、異世界における『最高峰の医療施設』へと進化を遂げていた。
「ふむ。傷口の癒着もないな。明日には抜糸できるぞ」
「ありがとうございます、大先生っ!」
「ザッシュ、次の回診じゃ。点滴の補充リストをテティアに回しておけ」
「はいっ! すでに手配済みです!」
私が病棟で回診を終え、カルテに丸を書き込んだ、その時だった。
「だ、大先生ェェェッ!!」
外から、悲鳴のような声が響き渡った。
バンッ! と待合室の重い扉が蹴り開けられる。
飛び込んできたのは、血相を変えた街の警備隊長だった。
そして彼の背後には、数人の屈強な護衛に抱えられながら、意識を失ってぐったりと首を垂れる一人の初老の男の姿があった。
「た、助けてくれ! 領主様が……領主様が、急に胸を押さえて倒れられたんだっ!」
その言葉に、病棟の空気が一瞬で凍りついた。
ルンデルの街の領主。
私たちにこの大豪邸(病院)を与え、莫大な予算と全面的なバックアップを約束してくれた、一番のスポンサーにして大恩人である。
「オスウェル! すぐに第一処置室へ運べ! ザッシュ、血圧と脈の確認! テティアは強心剤の用意じゃ!」
私はカルテを放り投げ、一瞬で『外科医』の顔へと切り替わった。
処置室のベッドに寝かされた領主の顔色は、恐ろしいほどどす黒い紫色に変色していた。
呼吸は極端に浅く、喘ぐように「ヒュー、ヒュー」と喉を鳴らしている。
指先は氷のように冷たい。
「先生、駄目です! 教団の最高位の治癒魔法を何度かけても、まったく顔色が戻りません!」
「どけ、治癒魔法など関係あるか!」
私は警備隊長を乱暴に押しのけた。
そして、首から下げていた真鍮製の『聴診器(グズガル特製)』を耳にはめ、冷たい金属の円盤を、領主の分厚い胸板にぴたりと当てた。
「(……ッ、なんじゃこの音は)」
心臓の鼓動。
本来なら「ドクン、ドクン」と規則正しく鳴るはずの生命のリズムが、ひどく濁っていた。
まるで、壊れた水門から水が逆流しているような。
『ザァァッ、シュルルッ』という、異常な雑音(心雑音)が混じっているのだ。
「先生……。領主様は、なんの病気なんです……? 毒ですか!?」
ザッシュが、震える声で尋ねた。
私は聴診器をゆっくりと外し、重々しく告げた。
「……『心臓弁膜症』じゃ。おそらく、大動脈弁が完全にイカれておる」
「しんぞう、べんまく……?」
「心臓というのはな、全身に血を送るための『ポンプ』なんじゃよ。そしてその中には、血が逆流しないための『扉(弁)』がいくつか付いておる」
私は両手で、ポンプを押すようなジェスチャーをした。
「領主の心臓は、一番大事な扉が完全に壊れてしまっている。だから、全身へ送り出そうとした血が、閉まらない扉から心臓の中へ『逆流』してしまっておるんじゃ」
前世の現代日本においても、非常に厄介な病気。
心臓という「物理的な機械のパーツ」が壊れているのだ。
「どれだけ治癒魔法で魔力を流し込もうが、回復ポーションを飲ませようが、物理的に壊れた機械の部品(扉)は元には戻らん。放っておけば、心臓が風船のように膨れ上がり、やがて破裂して死ぬ」
「そ、そんな……!」
警備隊長が、絶望に顔を歪めて膝から崩れ落ちた。
「治せないんですか!? 治癒魔法が駄目でも、大先生のその『科学』とやらでも……っ!?」
すがるような目で私を見る隊長。
私は、自分の小さな両手を見つめ、静かに鼻を鳴らした。
「治せない? 馬鹿を言うな。私が誰だと思っている」
前世で、この病気の手術を何百例こなしてきたと思っているんだ。
「……一つだけ、方法がある」
私は振り返り、処置室にいる全員の顔を真っ直ぐに見据えた。
「領主の胸の骨(肋骨)を、ノコギリで真っ二つに切り開く。そして、動いている心臓に直接メスを入れて、壊れた扉(弁)を新しいものと取り替える」
しん、と。
処置室の空気が、完全に静まり返った。
「む、胸を、切り開く……?」
「心臓に、メスを……っ!?」
ザッシュとテティアが、顔面を蒼白にして後ずさった。
警備隊長に至っては、白目を剥いて気絶寸前になっている。
無理もない。
お腹を切るのとは次元が違うのだ。
命の源であり、魂の器ともされる『心臓』を直接切り刻むなど、この魔法至上主義の異世界において、それは神に対する最大の冒涜であり、絶対に不可能な自殺行為でしかなかった。
「……名付けて『開胸手術』じゃ。これより、準備に入る!」
だが、私に迷いはない。
しかし――この時の私はまだ、この異世界で開胸手術を行うことの『本当の絶望的な壁』を、仲間たちに説明していなかった。
それは、神の怒りでも、魔法の呪いでもない。
ただ純粋な、現代医療史における『時間の壁』だった。




