第23話「執念の硝子と、初めて覗くミクロの世界」
「ザッシュ! オスウェル! 処置室へ急げ! 適合試験を始めるぞ!」
私は完成したばかりの顕微鏡を大事に抱え、猛ダッシュで処置室へと舞い戻った。
ベッドの上では、若い冒険者が死の淵を彷徨っている。テティアが必死に点滴を管理しているが、呼吸はいよいよ浅く、顔色は蝋人形のように白かった。
「先生、血圧がどんどん下がっています……っ!」
「持ち堪えさせろ! オスウェル、ザッシュ、お前たちの指先から少し血をもらうぞ。……テティア、患者の血を少し抜いてくれ」
私はグズガルが顕微鏡と一緒に作ってくれた『スライドガラス(薄い平らな硝子板)』を三枚、机の上に並べた。
そこに、患者の血を数滴ずつ垂らす。
さらに、一枚目にはオスウェルの血を、二枚目にはザッシュの血を混ぜ合わせ、爪楊枝のような細い木の棒で優しくかき混ぜた。
「先生、血を混ぜてどうなるんですか?」
「相性が悪ければ、血の粒同士が反発し合い、ドロドロの塊(凝集反応)になる。もし塊にならず、サラサラのままなら……それが適合する血じゃ」
私は顕微鏡を机に置き、反射鏡の角度を微調整して下からの光を確保した。
そして、一枚目の硝子板――患者とオスウェルの血を混ぜたもの――をレンズの下にセットし、震える手で接眼レンズを覗き込んだ。
ダイヤルを回し、ピントを合わせていく。
ぼやけていた赤い視界が、徐々に輪郭を持ち、クリアになり……やがて、ミクロの世界が私の目の前にバッチリと焦点を結んだ。
「おおおっ……!」
私は思わず、感嘆の声を漏らした。
呪われた細工師ガルネットが命を削って研磨したレンズは、私の想像を絶する凄まじい精度だった。
視界いっぱいに、真ん中が少し凹んだ赤いドーナツのような粒が、無数に浮かび上がっている。酸素を運ぶ命の運び手、『赤血球』だ。
前世で幾度となく覗き込んだその姿を、魔法と非科学に支配されたこの異世界で再び目にすることができた感動に、私は不覚にも目頭が熱くなるのを感じた。
「どうだ、先生! 俺の血は使えるか!」
「……駄目じゃ。オスウェル、お前の血は不適合じゃ」
私はため息をついて顔を上げた。
レンズ越しの世界で、患者の赤血球とオスウェルの赤血球が、まるで強力な磁石が引き合うようにベチャベチャとくっつき合い、巨大な塊を作り始めていたのだ。猛烈な凝集反応。これを体内に入れれば、一瞬で毛細血管が詰まって患者は死ぬ。
「クソッ、俺の血じゃ駄目なのか!」
「次じゃ。ザッシュ、お前の血を調べるぞ」
二枚目の硝子板をセットする。
再びレンズを覗き込む。
「(……頼む。これでダメなら、外にいる住人たちを片っ端から調べるしかない。だが、そんな時間はない……!)」
祈るような気持ちでピントを合わせる。
赤い世界が広がる。
そして。
「……サラサラじゃ」
視界の中の赤いドーナツたちは、互いにぶつかり合うことなく、滑らかに硝子の上を流れていた。凝集反応は一切見られない。完全な適合(O型に相当するユニバーサルドナー、あるいは奇跡的な一致)だ。
「ザッシュ! お主の血が適合したぞ! お前の血で、この男を救える!」
「本当ですか!? やった! 俺の血、いくらでも抜いてください!」
ザッシュが犬耳をピンと立て、嬉しそうに腕をまくる。
私は歓喜に打ち震えながら、すぐに太い注射器と、血を溜めるための清潔なフラスコを用意しようと振り返った。
だが、その時だった。
「あっ……先生!」
スライドガラスを見つめていたテティアが、悲鳴のような声を上げた。
見れば、硝子板の上に残っていたザッシュの血が、みるみるうちにドス黒く変色し、ゼリーのような不気味な塊へと姿を変え始めていたのだ。
「しまった……!」
私は舌打ちをした。
そうだった。血液というのは、血管の外に出た瞬間から空気に触れ、『凝固』を始めるのだ。血小板や凝固因子が働く当然の生体反応だが、今はこれが最大の壁となる。
「先生、血が固まっちゃいます! これじゃあ、点滴の管を通して患者さんの体に入れる前に、管の中で詰まってしまいます!」
「テティア、血が固まるのを防ぐ薬(抗凝固剤)は作れんか!?」
「柑橘類から抽出した酸(クエン酸)の成分なら調合できますが……それだけじゃ足りません!」
テティアは薬師としての知識をフル回転させ、必死に叫んだ。
「血液の鮮度を保つには、すぐに『冷やして』、一定の低い温度をずっと維持しなきゃ、血の細胞が腐って死んでしまいます!」
彼女の的確な指摘に、私は顔をしかめた。
氷水に浸けておく? いや、それでは温度が低すぎたり、逆に高すぎたりして、赤血球が破壊されてしまう。必要なのは、常に一定の『冷蔵温度帯(四度前後)』を長時間、狂いなく保ち続ける環境だ。
だが、ここは冷蔵庫など存在しない異世界。
魔道具の氷の箱はあるが、細胞を生かすためのミリ単位の温度調節などという繊細な機能はない。
「……一定の冷気を、狂いなく保ち続ける技術、か」
オスウェルが、腕を組みながら呟いた。
そして、何かに気づいたようにハッとして顔を上げる。
「先生! もしかしたら、一人だけ心当たりがあるかもしれません。冒険者ギルドで、ある理由から『無能』と罵られ、パーティを追放された氷の魔法使いの少女が……!」
私はバンッと机を叩いた。
「そいつじゃ! その少女を今すぐここへ連れてこい!」
患者の命を繋ぐための、最後のピース。
魔法使いでありながら攻撃魔法が使えない『落ちこぼれ』の少女へ向けて、私たちは走り出した。




