第22話「呪われた細工師と、神を宿す指先」
工房の空気が、ピンと張り詰めていた。
作業台の前に座るガルネットの細い背中を、私とグズガルは息を呑んで見守っていた。
キュッ……、キュルル……。
極小のヤスリが水晶を削る音が、微かに響く。
ガルネットの呼吸は浅く、時折「ゴホッ、ゲホッ」とひどく苦しげな咳を漏らしている。
私は、彼の作業を真横から食い入るように観察していた。
ヤスリを取ろうと手を伸ばす際、ガルネットの手は痙攣するようにブルブルと激しく震えていた。だが――いざヤスリを握り、指先が硝子に触れた瞬間、その震えがピタリと止まり、まるで彫像のように微動だにしなくなるのだ。
「(……凄まじいな)」
私は、前世で数々の天才外科医の手技を見てきた。だが、この少年の指先の安定感は、そのどれをも凌駕している。
しかし、私の医者としての目は、彼の異常な「症状」を的確に拾い上げていた。
極度の貧血を示す、真っ白な皮膚。
意図した動作の前に起こる、神経障害特有の激しい手の震え(振戦)。
そして――彼が激しく咳き込んだ瞬間。私は彼の口内、歯と歯茎の境目に沿って、ぐるりと「青黒い線」が走っているのをはっきりと見た。
「(……バートン線、いや、水銀中毒特有の色素沈着か!)」
私は内心で戦慄し、そして同時に、異世界の「呪い」の正体を完全に看破した。
ガルネットを蝕んでいるのは、悪魔や魔道具の呪いなどではない。
おそらく彼は、細かい装飾や彫金を行う際、金を溶かすための「水銀」や、加工しやすくするための「鉛」を日常的に扱っていたのだ。換気の悪い工房で、長年その有毒な蒸気を吸い込み続けた結果引き起こされた、重度の『重金属中毒』。
神経が破壊され、体が衰弱していくその恐ろしい職業病を、この世界の人間は「呪い」と呼んで恐れ、彼を見捨てたのだ。
「(……治せる。儂の現代知識なら、こやつの体から毒を抜き、この神がかった指先を完全な状態で取り戻せる!)」
しかし、今は処置室で眠る患者の命が先だ。
私が沈黙を守る中、ガルネットは己の壊れかけた神経を、執念と極限の集中力だけで無理やりねじ伏せ、研磨を続けていた。
「……親方。筒の、内径は……?」
「ああ。対物側が五ミリ、接眼側が十五ミリだ。内側には光の乱反射を防ぐための溝を彫ってある」
グズガルが低い声で答える。彼の目にも、ガルネットの執念に対する深い畏敬の念が浮かんでいた。
「わかった……。曲面の角度、調整します……っ」
力の加減を一つ間違えれば、硝子はパリンと砕け散ってしまう極限の作業。
三分が経過し、十分が経過し……やがて、三十分が経った頃。
「ゴホッ、ガハッ……っ!」
突如、ガルネットが激しく咳き込み、その口から真っ赤な血が作業台に点々とこぼれ落ちた。限界を超えた集中が、彼の弱り切った臓器に致命的な負荷をかけている。
「おいガルネット! もうやめろ、お前の体が持たねえ!」
グズガルが慌てて止めに入ろうとするが、ガルネットは血に染まった唇に笑みを浮かべ、それを手で制した。
「……できました。対物レンズ、接眼レンズ……両方、歪みゼロです」
ガルネットの震える掌の上には、二つの極小の硝子玉が乗っていた。
工房の炉の光を透かして見ると、それは一切の曇りも歪みもない、完璧な美しい曲面を描いていた。
「よくやった……! お前は、最高の職人じゃ!」
私はガルネットの細い肩を力強く抱きしめ、二つのレンズを宝物のように受け取った。
糸が切れたように意識を失いかけるガルネットの耳元で、私ははっきりと囁いた。
「よく耐えたな。……お前のその『呪い』の正体、儂にはわかっておるぞ」
「……え?」
「この急患を救い終わったら、次はお前の番じゃ。お前の呪い、儂が必ず解いてやる。だから死ぬなよ」
ガルネットが驚きに目を見開くのを背中で感じながら、私は振り返った。
「グズガル! 筒じゃ! 組み上げるぞ!」
「おうっ!」
グズガルが徹夜で削り出した、精緻な真鍮製の筒。その両端に、ガルネットが命を削って磨き上げた極小のレンズが、寸分の狂いもなくカチリと嵌め込まれる。
光を集めるための反射鏡(磨き上げた銀の板)を下部にセットし、ピントを合わせるためのダイヤルを取り付ける。
「完成じゃ……!」
それは、ただの道具ではない。
異世界の魔法と常識を打ち破るための、最強の武器。
ドワーフの技術と、重金属中毒に抗う少年の執念が産み落とした、異世界初の『光学顕微鏡』だった。




