第20話「点滴の限界と、失われた『赤い血』」
「どいてくれ! 先生、急患です! 街の外で魔獣の群れに襲われた冒険者が……っ!」
昼下がりの診療所に、鼓膜を裂くようなザッシュの叫び声が響き渡った。
バンッ! と乱暴に扉が開かれ、血まみれの男たちが担架を運び込んでくる。診療所の中に、むせ返るような鉄の匂い――大量の血液が酸化した強烈な悪臭が充満した。
「処置室へ運べ! ザッシュ、すぐに患者の服を切り裂け! テティアは麻酔と、生理食塩水の点滴を三本用意じゃ!」
私は手にしていたカルテを放り投げ、一瞬にして『外科医』の顔へと切り替わった。
担架に乗せられていたのは、まだ二十歳そこそこの若い剣士だった。右の太ももから腹部にかけて、魔獣の鋭い爪で抉られたような巨大な裂傷が走っている。
「ひどい……回復ポーションを何本もぶっかけたのに、血が止まらなくて……っ」
「当たり前じゃ! これだけ太い血管が千切れておれば、ポーションの気休め程度の回復力など、血の勢いで洗い流されてしまうわ!」
男の着ている革鎧は、赤黒い血を吸って重く変色し、床にはポタポタと絶え間なく命の雫が滴り落ちていた。
「オスウェル! 患者が暴れないように四肢を固定しろ!」
「承知した!」
「テティア、点滴の落下速度を全開にしろ! 血管の圧(血圧)を保つんじゃ!」
「は、はいっ! 落としています!」
私はグズガルが打ち上げたメスと『止血鉗子』を両手に握り、血の海と化した傷口の中へ躊躇なく指を突っ込んだ。
「(……動脈の完全断裂は免れておるが、太い静脈が複数やられておるな)」
ドクドクと溢れ出す血の出処を、指先の感覚だけで探り当てる。
神経を避け、血管の端だけを鉗子で次々と挟んで塞いでいく。血の海の中でも迷いのない私の手技に、付き添ってきた冒険者たちが息を呑むのがわかった。
「……よし、全ての出血点は塞いだ。縫合する!」
極細の絹糸で、裂けた筋肉と皮膚を素早く、かつ正確に縫い合わせていく。
処置自体は完璧だった。傷は塞がり、これ以上の出血は完全に食い止めた。
「終わったぞ。……じゃが」
血まみれの手袋を外した私は、ベッドに横たわる若い冒険者の顔を見て、奥歯をギリッと噛み締めた。
「顔色が……真っ白です。息も、すごく浅い……」
ザッシュが怯えたような声で呟く。
止血は成功した。テティアの点滴(生理食塩水)のおかげで、失われた『水分量』は補われ、心臓が空打ちして停止するショック状態は防げている。
しかし、患者の土気色の顔色は一向に戻らず、指先は氷のように冷たかった。
「……血が足りんのじゃ」
私は重々しい口調で告げた。
「点滴で血管の中の『水増し』はできた。じゃが、塩水はただの液体じゃ。人間の体中を巡り、脳や臓器に『命の息吹(酸素)』を運ぶ役割は、血の中にある赤い粒……『赤血球』にしかできんのじゃよ」
「赤い、粒……」
「今のこやつの血管の中は、薄まった泥水が流れているようなものじゃ。このままでは、全身の臓器が酸欠を起こして確実に死ぬ」
現代の医療用語を使わずとも、事態の絶望的な深刻さはザッシュたちにも伝わった。魔法やポーションで傷を塞ごうが、失われた「血そのもの」は魔法では生み出せないのだ。
「そ、そんな……! じゃあ、俺たちの血を飲ませれば!?」
「馬鹿者、胃袋に入れた血などただ消化されて糞になるだけじゃ! 血管の中に直接、他人の血を流し込む……『輸血』をするしかない」
私が言い放つと、オスウェルがハッとして腕を差し出した。
「なら、俺の血を使え。これでも人より血の気は多い方だ。抜けるだけ抜いて構わんぞ」
「駄目じゃ」
私はオスウェルの太い腕をピシャリと叩いた。
「血には『相性』があるんじゃ。もし合わない血を血管に流し込めば、体の中で異物とみなされ、猛烈な勢いで血が泥のように固まってしまう。そんなことをすれば、全身の血管が詰まって一瞬で絶命するぞ」
「血が、固まる……!? そんな罠みたいな話があるんですか!?」
「人間の体というやつは、恐ろしく繊細にできているんじゃよ」
前世の歴史でも、血液型の概念が発見されるまで、動物や他人の血を輸血して無数の患者が命を落としてきた。
それを防ぐためには、患者の血と提供者の血を硝子の上で混ぜ合わせ、固まるか固まらないかを確かめる『交差適合試験』が絶対に必要だ。
「なら、その相性とやらを調べればいいんでしょう! 先生なら、やり方を知っているはずです!」
ザッシュがすがるような目で私を見る。
私は小さく頷いた。
「ああ、理屈はわかっておる。血を混ぜて、細胞が固まる様子を観察すればいい。……じゃが、決定的な問題がある」
私は自分の小さな両手を見つめた。
「血の粒(細胞)は、あまりにも小さすぎるんじゃ。肉眼では、ただの赤い水が混ざったようにしか見えん。あれを見るには、ミクロの塵すら山のように巨大に映し出す『特別な目』が必要なんじゃ」
現代医療における最も偉大な発明の一つ。
目に見えない悪魔(細菌)や、命の粒(細胞)の存在を人類に知らしめた、光学の極致。
「(顕微鏡……! それさえあれば、この男の命は繋がる!)」
私は患者の脈を確認した。
弱く、早い。残された時間は、長く見積もっても半日というところか。
「ザッシュ、テティア! 点滴を絶対に絶やすな! オスウェルは患者の体を毛布で温め続けろ!」
私は血まみれの白衣を翻し、処置室の扉へ向かって走り出した。
「先生!? どこへ行くんですか!」
「中庭じゃ! あの頑固なドワーフの頭を叩き起こしてくる!!」
もはや、一刻の猶予もない。
私は限界を超えようとしている命を救うため、異世界に存在しない『ミクロの瞳』を求めて、カンカンと鉄の音が響く工房へと飛び込んでいった。




