第13話「不眠不休の野戦病院と、逃げ出した者たちの帰還」
それからの数日間、ルンデルの街の下層は、さながら最前線の野戦病院と化した。
「ザッシュ! 3番ベッドの点滴が落ちておらん! 針がズレたか、血管が詰まったんじゃ。すぐに刺し直せ!」
「はいっ! 腕を縛って……よし、逆血確認! 滴下再開します!」
「テティア、経口補水液の在庫は!?」
「今、第5バッチの煮沸が終わりました! グズガルさんが作ってくれた大樽で冷ましています!」
「オスウェル! 隔離エリアの第2区画で嘔吐した者がおる。ただちに石灰を撒いて消毒じゃ!」
「承知した!」
私の号令が飛ぶたび、三人の教え子たちが疾風のように駆け回る。
はじめは血を見るだけで震えていたザッシュは、今や見事な手つきで静脈注射(IV)をこなし、気弱だったテティアは、大鍋をいくつも並べて正確な分量の食塩水を調合する立派な『製薬工場長』と化していた。
グズガルに至っては、自身の工房に籠りきりでガラスを吹き続け、一日数十本という凄まじいペースで注射器と点滴ボトルを量産しては診療所に運び込んでくる。
街の住人たちも劇的に変わった。
当初は「手洗い」や「水の煮沸」を面倒くさがっていた者たちも、死の淵にあった患者たちが、私の点滴と水分補給だけで次々と血色を取り戻し、歩けるようになる姿を目の当たりにしたのだ。
もはや誰も、得体の知れない治癒魔法など信じていなかった。
彼らが信じるのは、火の通った温かい湯と、石鹸と、10歳の幼女がもたらした『科学』だった。
「……ふぅっ、はぁっ……」
診療所の壁に背を預け、私はズルズルと床に座り込んだ。
丸三日、一睡もしていない。
前世の全盛期なら、ブラック病院の当直明けにそのままオペに入るような生活をしていたから三日徹夜くらいどうということはなかった。だが、この栄養失調上がりの10歳の体は、完全に限界を訴えていた。
視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りが止まらない。
「先生! 無理しないでください、少しでも横になって……!」
「馬鹿者、戦場で大将が寝てどうする。……患者の、容態は」
「……今朝から、新たな感染者はゼロです。重症だった患者さんも、全員が自力で食事をとれるまで回復しました」
ザッシュの言葉に、私はほうっと長く息を吐き出した。
「そうか。……なら、山は越えたな。潜伏期間を考えても、これ以上の感染爆発は起きんじゃろ」
――勝ったのだ。
魔力ゼロの私たちが、魔法で治せない死の病を完全に制圧した。
その時だった。
『――門を開けい! 司祭長様のお戻りである!』
スラムと、富裕層が住む上層を隔てる巨大な鉄格子。
数日前に固く閉ざされたはずのその門が、重々しい音を立てて開いた。
「……何の用だ。上層の連中が」
大剣を肩に担いだオスウェルが、診療所の外へ出て低い声で唸る。
私もザッシュに肩を貸してもらいながら、ふらつく足で表に出た。
そこには、純白の高級なローブに身を包んだ教団の司祭長と、街の領主の代理である役人たち、そして彼らを護衛する完全武装の騎士団が並んでいた。
彼らは一様に、鼻と口を分厚い布で覆っている。スラムの住人は皆、呪いで死に絶え、腐敗臭が充満していると思い込んでいるのだ。
「おお、神よ。哀れな迷える子羊たちは、呪いの瘴気に飲まれ……ん?」
大仰に祈りを捧げようとした司祭長が、ピタリと動きを止めた。
彼の目に映ったのは、死体の山ではない。
道の端には石灰が撒かれて清潔に保たれ、住人たちは焚き火で湯を沸かしながら、穏やかに談笑している。病の気配など、どこにもない。
「な、なんだこれは……! なぜ生きている! 黒死吐きの呪いはどうした!」
「呪いなど最初から存在せんよ、三流のヤブ医者ども」
私はオスウェルの前に進み出た。
汚れきった服に、目の下には真っ黒なクマ。だが、その声には一片の揺らぎもない絶対的な自信が満ちていた。
「なっ……薄汚いガキが、司祭長様に向かってなんたる暴言を!」
「暴言? 事実を言ったまでじゃ。お前たちが呪いと呼んで逃げ出した『病』は、儂らが全て治療した。手洗い、うがい、煮沸消毒。そして点滴による水分補給。たったそれだけの、基本中の基本でな」
私の言葉に、司祭長は顔を真っ赤にして激昂した。
「馬鹿なことを言うな! 魔法の光なしで人が救えるはずがない! き、きっとあれだ! 私が上層から毎日捧げていた祈りが天に届き、神の奇跡が起きたのだ!」
「そうだそうだ! 教団の奇跡だ!」
取り巻きの治癒士たちが追従する。
その見え透いた嘘と、命を弄ぶような傲慢さに――私の堪忍袋の緒が、ブチリと音を立てて切れた。
「……オスウェル」
「はっ」
「あの白豚(司祭長)を引きずり下ろせ。殺すなよ、少し驚かすだけじゃ」
私の命令が下った瞬間。
オスウェルの巨体が、物理法則を無視したような速度で前方に掻き消えた。
「え?」
司祭長が間抜けな声を上げた時には、すでにオスウェルの大剣の『峰』が、彼の首筋にピタリと当てられていた。護衛の騎士たちは、剣を抜くことすらできていない。
オスウェルが片手で司祭長の襟首を掴み、ボロ布のように引きずって私の前に放り投げた。
「ひぃっ!? や、やめろ、私を殺せば領主様が……!」
「殺しはせんよ。ただ、教育してやるだけじゃ」
私はへたり込む司祭長を見下ろし、冷酷な目で宣告した。
「傷の表面だけを塞ぎ、内部で膿を育てる馬鹿げた魔法。病の原因を調べもせず、呪いと呼んで患者を見捨てる傲慢さ。……お前たちのやっていたことは、医療ではない。ただの『詐欺』じゃ」
スラムの住人たちが、私の言葉に呼応するようにジリジリと司祭長たちを取り囲む。
彼らの目には、もはや教団への畏れなどない。あるのは、自分たちを見捨てた者への確かな怒りと、私への絶対的な信頼だった。
「ひっ……! くるな、呪いが、瘴気がうつる……!」
「いい加減に目を覚ませ!」
私の怒声が、街中に響き渡った。
「命を救うのは、祈りでも奇跡でもない! 泥臭い知識と、患者に向き合う覚悟だけじゃ! 患者を見捨てて逃げ出すような奴に、白衣を着る資格はない! 今すぐこの街から出て行けェッ!!」
圧倒的な覇気。
元・天才外科医が放つ、数万の死線を超えてきた者の『言霊』に、司祭長は完全に気圧され、泡を吹いて気絶してしまった。
護衛の騎士たちも、殺気立つ群衆と凄腕の剣士を前にしては手も足も出ず、司祭長を引きずって逃げ帰るしかなかった。
「……ざまあみろ、じゃ」
逃げていく役人たちの背中を見送った後。
ふっと、私の中から最後の糸が切れる音がした。
「あ、れ……? おかしいな、地面が、浮いて……」
視界が暗転し、私の体はぐらりと前へ傾いた。
「先生ッ!?」
ザッシュとオスウェルが慌てて駆け寄ってくるのを最後に、私の意識は深い深い眠りの底へと落ちていった。
患者を全員救いきったという、確かな安堵感だけを胸に抱いて。
――こうして、ルンデルの街を襲った未知の病魔は、完全に討ち払われた。
後日。
教団の威信は完全に失墜し、代わりにスラムの住人たちからの猛烈な嘆願を受けた街の領主は、私に多額の報奨金と、街の特等区画にある大きな屋敷を与えることとなる。
隠居したかっただけの10歳の天才女医は、図らずもこの街で最も尊き『大先生』として、新たな拠点を構えることになってしまったのである。




