第12話「隔離の鉄則と、命を繋ぐ『硝子の管』」
「通せ! 俺たちを外に出せ!」
「こんな汚え場所に閉じ込めて、見殺しにする気か!」
ルンデルの街、下層へ繋がる大通り。
封鎖されたバリケードの前に、パニックに陥った群衆が押し寄せていた。誰もが恐怖に顔を引き攣らせ、今にも暴動が起きそうな熱気を孕んでいる。
「一歩でもバリケードを越えてみろ」
ズンッ、と。
石畳を叩き割るような音と共に、身の丈ほどもある大剣が地面に突き立てられた。
オスウェルだ。歴戦の剣士から放たれる凄絶な殺気に、最前列にいた男たちがヒッと息を呑んで後ずさる。
「越えた者は、俺が峰打ちで気絶させてスラムのど真ん中に放り投げる。……死にたくなければ、あの方の言葉を聞け」
オスウェルが視線を向けた先。積み上げられた木箱の上に、私――10歳の幼女医、ミルゼが立っていた。
私は大きく息を吸い込み、腹の底から声を張り上げた。
「よく聞け、馬鹿者ども! お前たちは今、目に見えない悪魔に包囲されておる!」
群衆が静まり返る。
「これは呪いではない。病じゃ! 人の排泄物や吐瀉物に混じった『ばい菌』が、井戸水や手を通して口に入り、胃腸を食い破る病気じゃ! だから、外に逃げても意味はない! お前たちが動けば、病も一緒に動いて街全体が全滅する!」
私は持っていた杖(ただの木の棒だが、指示棒代わりだ)で、群衆をビシッと指差した。
「助かりたければ、儂の言うことを絶対に守れ! 第一に、生水は一滴も飲むな! 飲むなら必ず火にかけてグツグツと煮立たせてから冷ませ! 第二に、排泄物と吐瀉物は生活圏から離れた場所に深く穴を掘って埋めろ! 第三に、飯を食う前は必ず強い酒か石鹸で念入りに手を洗え!」
公衆衛生の基本中の基本。
コレラ菌(に類する水系感染症)は、熱と乾燥、そして適切な手洗いに極めて弱い。これらを徹底するだけでも、感染の拡大は劇的に抑えられるはずだ。
「そんなことで、悪魔の呪いが防げるわけ……」
「防げるんじゃよ!!」
反論しようとした男の声を、私は怒鳴りつけて叩き斬った。
「治癒魔法の連中は、お前たちを見捨てて逃げた! だが儂は逃げん! お前たちが掟を守る限り、儂が必ず全員治してやる! だから、今は自分の持ち場(家)に戻って湯を沸かせ!!」
私の剣幕と、背後に立つオスウェルの威圧感に気圧され、群衆は少しずつ、だが確実にバリケードから離れ、家へと戻り始めた。
「……ふぅ。とりあえず、封じ込めには成功じゃな」
「しかし先生、根本的な治療にはなっていません」
木箱から降りた私に、ザッシュが焦燥感を滲ませて言った。
「はいっ! 先生、蒸留水と塩と砂糖の配合、終わりました!」
背後から、両手に水差しを持ったテティアが駆け寄ってくる。
彼女には、経口補水液(OS-1のようなもの)を大量に作らせていた。沸騰させて不純物を取り除いた水に、正確な分量の塩と砂糖を混ぜたものだ。腸からの水分吸収を劇的に助ける。
「よし、軽症の者にはこれを飲ませ続けろ。……じゃが、問題は」
私は診療所の簡易ベッドに目を向けた。
一番最初に担ぎ込まれた、十歳の少年。彼はもう、水差しを口に近づけても飲み込む力すらなく、口に入れた端から吐き戻してしまっていた。
脱水が末期まで進行し、血圧が極端に低下している。もはや、口からの水分補給(経口投与)では間に合わない。
「(……くそっ。点滴があれば、血管に直接水分をぶち込めるのに……!)」
焦りで奥歯を噛み締めた、その時だった。
「出来たぞォォォォッ!!」
バンッ! と診療所の扉が吹き飛ぶ勢いで開かれ、煤だらけのドワーフが転がり込んできた。
グズガルだ。彼の両手には、布に厳重に包まれた『何か』が握りしめられていた。
「先生! あんたの描いた狂った図面、儂の腕で完璧に形にしてやったぜ!」
グズガルが布を解く。
そこに現れたのは、透明度の高いガラスで作られた円筒。その先端には、見事な精度で削り出された、中が空洞になっている『極細の鋼の針』が取り付けられていた。そして、ガラス筒の後ろには、圧力をかけるための滑らかなピストン(木と動物の皮で密閉性を高めたもの)がある。
「おおおおっ……! これじゃ、間違いない、注射器じゃ!」
私は震える手でそれを受け取った。
ピストンを引いてみる。シュコッ、という小気味良い音と共に、完璧な密閉状態が保たれているのがわかった。この世界の技術力では不可能だと思っていたが、白内障から回復し、全盛期以上の感覚を取り戻したドワーフの執念が、これを可能にしたのだ。
「テティア! 今すぐ『生理食塩水』を作れ! 一リットルの蒸留水に対して、塩をきっちり九グラムじゃ! 一グラムの狂いも許さんぞ! そしてそれをもう一度完全に煮沸しろ!」
「は、はいっ! 蒸留水と塩ですね、九グラム……すぐに!」
血管内に直接液体を入れる場合、体液と同じ浸透圧(塩分濃度約0.9%)でなければ、赤血球が破壊されて患者は死ぬ。さらには、一滴の細菌も混入してはならない。テティアの正確無比な薬師としての調合技術が、ここで最大限に活きる。
数分後。
完全に無菌状態にされた温かい生理食塩水が、フラスコに入れられて運ばれてきた。
「ザッシュ! この注射器の針とガラス筒を、もう一度強い酒で洗って火で炙れ!」
「はい!」
準備は整った。
私は少年のベッドの側に立ち、彼の干からびた細い腕を掴んだ。
脱水で血管がペチャンコに潰れており、針を刺す血管(静脈)を探すのすら困難な状態だ。
「ザッシュ、少年の二の腕を布できつく縛れ」
止血帯の要領で腕を縛り、うっ血させる。私は指先の感覚を極限まで研ぎ澄ませ、皮膚の下に隠れた細い静脈を探り当てた。
「(……ここじゃ!)」
私は生理食塩水を吸い上げた注射器を持ち、斜めの角度で少年の腕に針を滑り込ませた。
「……っ」
手応えあり。静脈の壁を突き破り、針先が血管の中に入った確かな感覚。
私は慎重に注射器のピストンを押し込み始めた。
「先生……! それは、何を……」
「水を、直接『血の中』に流し込んでおるんじゃ」
少年の父親が震える声で尋ねるのに答えながら、私はゆっくりと、ミリ単位の調整で食塩水を注入し続ける。
乾ききったスポンジに水が染み込むように、命の水分が少年の体内へと巡っていく。
ガラス筒の中の食塩水が空になると、私は針を抜かずに筒だけを外し、テティアに指示して作った『点滴ボトル』――逆さに吊るしたフラスコから伸びた動物の腸(煮沸消毒済み)の管を、針の根本に接続した。
「よし、これで持続的に水分が補給される」
ポタリ、ポタリと、フラスコから一定のペースで食塩水が落ちていく。
この世界で初めて行われた『静脈内点滴(IV)』だった。
数分が経過した。
息を詰めて見守っていた全員の目の前で、奇跡は起きた。
「あ……ああ……っ」
少年の父親が、床に泣き崩れた。
干からびて土気色だった少年の頬に、うっすらと血色が戻っていた。陥没していた眼窩はふっくらとし、糸のように細かった脈は、力強く、規則的なリズムを取り戻していた。
「……う、ん……」
少年が、ゆっくりと目を開けた。
「とーちゃん……俺、喉が、渇いた……」
「おおっ、おおおおっ……!!」
父親は少年の手を握りしめ、ボロボロと涙をこぼして号泣した。
絶対に助からないと思われていた死の淵から、たった一本の針と塩水が、彼を引きずり戻したのだ。
「す、すごい……! 魔法の光なんて一回も出してないのに、呪いが消えた……!」
「魔法じゃない、科学だ。……いや、先生の手こそが、本当の魔法なのかもしれねえな」
テティアが目を丸くし、グズガルが髭を撫でながらニヤリと笑う。
「喜ぶのはまだ早いぞ、お前たち」
私は額の汗を拭いながら、力強く口角を上げた。
「まだ街には、脱水で死にかけている患者が山ほどおる。グズガル、注射器の追加生産じゃ! 最低でもあと五十本! テティアは生理食塩水と経口補水液の量産! ザッシュとオスウェルは、患者を重症度順に診療所に運べ!」
四人の顔つきが、一瞬にして引き締まった。
彼らはもう、ただの剣士や薬師、職人ではない。
病という目に見えない魔王と戦う、最強の『医療チーム』だ。
「「「はいっ!!(御意!)」」」
返事と共に、全員が弾かれたように動き出す。
魔法使いどもが尻尾を巻いて逃げ出したこの街で、たった五人の反撃が始まろうとしていた。




