第11話「完璧なメスの切れ味と、忍び寄る『黒死吐き』の影」
「……素晴らしい。まるで豆腐でも切るように、抵抗なく肉が裂けるわい」
ルンデルの街角に新設された『ミルゼ総合診療所(元・ギルドの空き家)』の処置室。
私は、患者の腕の腫瘍(良性の脂肪腫)を取り除きながら、手元の刃物に感嘆の声を漏らした。
グズガルが打ち上げた『メス』は、私の前世の記憶にある医療用ステンレスメスと比べても遜色のない、恐るべき切れ味と軽さを誇っていた。細胞を押し潰さずに切断できるため、出血が極端に少なく、術後の回復も劇的に早い。
「へっ、儂の腕を舐めるなよ、先生。鉄の配合から見直した特注品だ」
分厚い遠視用の眼鏡をかけたグズガルが、腕を組んで得意げに鼻を鳴らす。
「テティア! クリップ(止血鉗子)を渡せ。よし、血管を挟むぞ……うむ、完璧な噛み合わせじゃ。これで出血は完全にコントロールできる」
「は、はいっ! 患者さんの麻酔も安定しています!」
テティアが助手としてテキパキと動く。
かつて患者を四人がかりで押さえつけていた野蛮な手術は過去のものとなった。
麻酔で眠る患者、極小の切開、確実な止血。ここは異世界でありながら、間違いなく近代外科手術の現場だった。
「よし、終わったぞ。ザッシュ、縫合と包帯じゃ。オスウェル、次の患者を入れろ」
「はい、先生!」
「承知した」
私が手袋(豚の腸を加工したもの)を外して息をついた、その時だった。
「た、助けてくれぇっ!!」
診療所の待合室から、鼓膜を裂くような男の悲鳴が響いた。
オスウェルが扉を開けるより早く、一人の薄汚れた身なりの男が転がり込んできた。その腕の中には、ぐったりとした十歳くらいの少年が抱えられている。
「おい、順番を守れ。ここは急患以外は……」
オスウェルが男を制止しようとしたが、私は咄嗟に叫んだ。
「待てオスウェル! 通せ!」
私の鼻が、強烈な異臭を嗅ぎ取っていた。
血の匂いではない。酸い嘔吐物の匂いと、水のような下痢便特有の生臭い匂いだ。
ザッシュも鼻を覆い、犬耳をペタンと伏せている。
「こっちのベッドに寝かせろ! いつの間にかこうなった!?」
「今朝……いや、昨日の夜からです! 突然吐き始めて、水みたいな便が止まらなくなって……今朝になったら、急に呼びかけても目を覚まさなくなって……!」
男は泣き叫びながら少年をベッドに寝かせた。
少年の顔を見て、私は息を呑んだ。
目は落ちくぼみ、頬はこけ、皮膚は土気色を通り越してどす黒く変色している。つい昨日まで元気だった子供が、たった一晩でミイラのように干からびていたのだ。
私は急いで少年の手の甲の皮膚を指でつまみ上げ、パッと離した。
「……ツルゴール(皮膚の弾力)の低下。つまんだ皮膚が全く元に戻らん。極度の脱水症状じゃ」
さらに少年の口内を見る。舌はカラカラに乾き、唾液は一滴もない。脈を取ると、糸のように細く、そして異常に速い。
「テティア! 水に少量の塩と砂糖を混ぜたものを急いで作れ! 口から飲ませるんじゃ!」
「は、はいっ!」
「ダメです、先生! さっきから水を飲ませても、全部吐き出しちまって……!」
「くそっ、これほどの脱水を起こしていては、胃腸が水を吸収できんか」
私は舌打ちをした。
点滴があれば一発で救える命だが、グズガルに依頼している『注射器』は、ガラスの筒と極細の針を組み合わせるという構造上、まだ完成していなかった。
「……先生、この匂い」
背後で、ザッシュが青ざめた顔で呟いた。
「どうした、ザッシュ」
「表から、同じ匂いがします。……それも、一人や二人じゃない。たくさん」
ザッシュの言葉に、私は弾かれたように窓へ駆け寄り、外を見下ろした。
診療所の前に広がる通り。そこには、少年と同じように激しく嘔吐し、自力で歩けずに家族に引きずられるようにして歩く人々の姿が、次々と現れていた。
道端には黒ずんだ吐瀉物がぶち撒けられ、異様な悪臭が街を包み始めている。
「……おいおい、冗談じゃろ」
私は窓枠を強く握りしめた。
水のような下痢。激しい嘔吐。急激な脱水による皮膚の黒ずみ。
前世の知識が、この病の正体を恐ろしいほどの正確さで告げていた。
『コレラ』、あるいはそれに類する強力な水系感染症。
「オスウェル!」
「はっ」
「すぐにギルドと教団の治癒院に行って様子を見てこい! この患者たちがどこから来たのか、街のどの範囲で広がっているのかを調べろ! 走れ!」
「御意!」
オスウェルが疾風のように飛び出していく。
私は震えるテティアとザッシュ、そしてグズガルを振り返った。
「いいか、お前たち。今から儂が言うことを絶対に守れ。患者の吐瀉物や排泄物には『素手で絶対に触るな』! 触った手で自分の口や目をこするのも厳禁じゃ! 処置が終わったら、必ず強い酒で手を洗え!」
「せ、先生……これは、ただの病気じゃないんですか……?」
「ただの病気じゃ。じゃがな……」
私は奥歯を強く噛み締めた。
「これは『伝染る』病気じゃ。目に見えん悪魔(ばい菌)が、人から人へ、水から水へと移り住んで、街全体を食い尽くす。……パンデミック(感染爆発)が起きておる」
一時間後。
顔色をなくしたオスウェルが診療所に飛び込んできた。
「先生、最悪の事態です」
オスウェルは息を切らしながら報告した。
「患者のほとんどは、衛生状態の悪い下層の住人です。ギルドもすでに患者で溢れかえっています。……そして、教団の治癒院ですが」
「あいつら、まさか」
「ええ。門を固く閉ざし、高位の騎士を配置して下層民を一切入れていません。教団の発表によれば、これは『黒死吐きの呪い』であり、神の怒りに触れた下層民が瘴気を発しているのだと。……近づけば呪いがうつると言って、富裕層と共に街の北側へ逃げる準備を始めています」
「……あの三流のヤブ医者どもがァァァッ!!」
私は壁を力任せに殴りつけた。
10歳の細い拳が擦りむけたが、痛みなど感じなかった。
治癒魔法で外傷しか治せない彼らは、感染症の概念を知らない。
だから未知の病を「呪い」と呼び、恐れ、患者を切り捨てる。
「先生……この子、息が……っ」
ベッドの傍らで、父親が絶望の声を上げた。
少年の呼吸が、いよいよ浅く、不規則になっている。
「……泣き言を言っている暇はないな」
私は白衣の代わりである清潔なローブを翻し、患者の前に立った。
もう、手術室の天才外科医ではない。
ここからは、街全体を一つの『患者』として診る、公衆衛生の司令塔だ。
「いいか、オスウェル。ギルドのマスターを脅してでも引っ張り出せ。スラムに通じる道を全て封鎖し、患者を隔離するんじゃ。健常者と患者を分けろ!」
「テティア! 水を沸かせ! ひたすら沸かし続けろ! 生水は一滴たりとも飲ませるな! 全て煮沸消毒じゃ!」
「グズガル! 徹夜してでも『注射器』を完成させろ! それがなければ、この患者たちは救えん! 大至急じゃ!」
私の鋭い号令に、三人が同時に動いた。
「儂は、この世界の馬鹿げた常識に、科学と知識で叩き潰す。一人たりとも死なせんぞ!」
死の病『黒死吐き』との、壮絶な戦いの火蓋が切って落とされた。




