95 天授の強さ 由来の謎
「……天授です」
チェリは目を丸くした。
「前にここでお話しした時、チェリ様はぴんと来ていないご様子でしたから。ご存じないのだろうと思って、あの時は口にしなかったのですが」
アリエはチェリの顔を見て、少し首を傾げた。
「その様子ですと、今はご存じなのですね」
「……知ったのは最近よ」
チェリは膝の上で手を組み直した。
合格の後、シルヴァーンを大学へ連れていくための申請を出すことになった時だった。竜の意志を示すためにヴァーシャラが呼ばれ、その時に初めて天授という言葉を聞いた。生まれつき授かる特殊な力で、魔法とは系統が違う。滅多にいない。持っている本人ですら気づいていないことがある。おばあさまたちがそう教えてくれた。
「それまでは、そんな言葉があることも知らなかった」
「無理もありません」
アリエは穏やかに頷いた。
「天授は、元々中央領の信教で語られてきたものです。神の恵みとして授かる力だとされていて、こちらでは大学にも研究する部署があるほどですが」
天授奉明室。昨日の手紙の差出人の名が、チェリの頭をよぎった。
「西の領地には、その考え方自体があまり根付いておりません。言葉を知らない者も多いでしょう。チェリ様がご存じなかったのも、当然のことです」
「……そうなんだ」
「それで、私の天授ですが」
アリエは右手を卓の上に置いた。
「どうも私には、隠匿の天授があるようでして」
「隠匿?」
「見つからないようにしたいと思って動くと、誰にも見つからないのです」
何でもないことのように言った。
「姿が消えるわけではありません。そこにいるのに、誰の目にも留まらない。そういう力のようです」
隠匿、という言葉に聞き覚えがあった。学志祭の日に帽子につけたアミュレットが、同じ名で呼ばれていた。顔の印象を目立たなくするだけで製作が禁じられるような魔道具だった。
この人は、それを何も身につけずにやっているのだ。
チェリは口を開けたまま、しばらく言葉が出なかった。
城でのことを思い出した。チェリの部屋にはシルヴァーンがいて、扉の前には見張りが立っていた。それなのにこの人は、部屋の中まで入り込んできた。誰にも気づかれずに。
「……だから、捕まらないのね」
「ええ。見送りの時も、あの人垣の後ろにおりましたが、見つかりたくないと思った途端に誰の目にも映らなくなりました」
「私には見えたけど」
「チェリ様には見ていただきたかったので」
アリエは小さく笑った。
見つかりたくないと思えば見つからない。見せたいと思えば見せられる。チェリは向かいの男をまじまじと見た。こうして茶を飲んでいる姿は、どこにでもいる穏やかな青年にしか見えない。
入口の傍で、タウラが小さく息を吐く音がした。護衛として聞くには、あまりにも厄介な話だった。
「教団にいた頃は、この力を随分と重宝されました」
アリエは茶碗を持ち上げた。
「工作員に選ばれたのも、そのためです」
チェリは黙ってアリエを見ていた。
天授。生まれつき授かる力。持っている本人ですら気づかないことがある。
ふと、別のことが頭に浮かんだ。前にこの部屋で、アリエが語った話だった。四十年前、西領主の城に送り込まれた敬虔な信徒たちが、一人残らず教団を離れてお祖父様についた。仕掛けも魔法も見つからなかった。人に由来するものだと、アリエは言っていた。
「ねえ」
チェリは顔を上げた。
「もしかして、お祖父様が信徒たちの信仰をひっくり返したのも、天授の力だと思ってるの?」
アリエは茶碗を置いた。少しの間、黙っていた。
「その可能性は高いと思っております」
穏やかな声のまま、言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「ただ、それほど強い天授というのは聞いたことがありません。人の信仰を、しかも、どんな人であっても覆すような力です。天授を持つ者自体が少ないうえに、あれほどの力となると」
「じゃあ、違うってこと?」
「分かりません。ハリューク様がどちらのお生まれなのか、私は存じ上げませんので」
アリエは少しだけ声を落とした。
「ですが、もし中央領のお生まれだとしたら。天授が語られてきた土地の方なら、そういうこともあり得るのかもしれない、とは思っております」
チェリは瞬きをした。
「……お祖父様が、中央領の?」
「たとえば、のお話です」
チェリは返事をしなかった。
お祖父様は西の英雄と呼ばれている。西の領地を豊かにして、街道を整え、竜を退けた人だ。西の人間なのだと、何の疑いもなく思っていた。
けれど、どこで生まれたのか。
若い頃どこにいて、どうやって西の領主になったのか。
聞いたことがなかった。聞こうと思ったこともなかった。父からも、おばあさまたちからも、そういう話を聞いた覚えが一つもない。
チェリは膝の上で組んだ指に力を込めた。
「私、お祖父様がどこの生まれか知らない」
アリエは何も言わなかった。茶碗の縁に右手の指を添えたまま、静かにチェリを見ていた。
しばらくして、アリエが口を開いた。
「チェリ様。前にここでお話ししたことを、覚えておいでですか」
「……どれのこと」
「四十年前の信徒たちと、私と、宿の襲撃犯と。三つの話を一つに繋げた時のことです」
チェリは答えなかった。忘れるはずがなかった。
あの日アリエは、仕掛けではなく人に由来するものだと言った。お祖父様だけでは説明がつかない、と。そしてチェリの前に立つと、うっすらと何かを感じていたと。
「あの時は、何と呼べばいいのか分からないまま、性質だとか特性だとか申し上げました」
アリエは義手の上に右手を重ねた。
「もしハリューク様のあれが天授なのだとしたら。チェリ様が受け継いでおられるかもしれないものも、同じく天授なのかもしれません」
チェリの指先が冷たくなった。
「……仮説でしょう」
「ええ。仮説です。前と同じく、証拠は何もありません」
アリエはあっさりと認めた。
「ただ、天授という言葉を知っておられるなら、お伝えしておいたほうがいいと思いまして。あの時はお話ししても伝わらなかったでしょうから」
チェリは目を伏せた。
ヴァーシャラが呼ばれた日、天授の話を聞いて、自分が「魔法の天才」と呼ばれてきたのもそうなのかもしれないと考えた。その時にアリエの言葉を思い出しかけて、まさか、と打ち消した。
打ち消したものに、今度は外から名前をつけられた。
それから、昨日届いた手紙のことが頭に浮かんだ。天授奉明室、ミクラ・レンジー。天授について調べていること、ハリュークの血縁にぜひ協力を願いたいこと。ヤシャークは、お祖父様の血筋の子が入学すると必ず声をかけてくる、と言っていた。
ハリュークの血縁には、何かがある。少なくとも、そう考えている人が大学にいる。
「チェリ様?」
「……なんでもない」
チェリは顔を上げた。言いたいことがないわけではなかった。けれど、それをどう言葉にすればいいのか、まだ分からなかった。
入口の傍で、タウラは黙って立っていた。視線は部屋の中に向けたまま、何も言わなかった。
アリエは茶碗の中を覗き込んだ。すっかり冷めているらしかった。
「随分とお引き止めしてしまいましたね」
「ううん。訂正してくれてありがとう。大学にいる人たちのこと」
「お役に立てたなら何よりです」
アリエは立ち上がって、胸に右手を当てた。
「ご入学、改めておめでとうございます。どうか良い学生生活を」
「アリエも」
チェリは言いかけて、言葉に詰まった。この人に何と言えばいいのか分からなかった。
「……捕まらないでね」
アリエは一瞬きょとんとして、それから声を立てずに笑った。
「見つからないのは得意ですので」
チェリが暖簾に手をかけた時、背後で小さな声がした。
「……あまり、悪い男に気を許すものではありませんよ」
チェリが振り返ると、アリエはいつもの穏やかな顔で茶碗を片づけていた。今の言葉が自分に向けたものだったのか、独り言だったのか、チェリには分からなかった。
* * *
店を出ると、日はだいぶ高くなっていた。
路地から中央通りに戻ると、人通りが増えている。チェリは外套の前を握り直して、しばらく黙って歩いた。タウラは半歩後ろをついてくる。
中央通りの角まで来たところで、チェリは足を止めた。
「タウラ。サリアおばあさまの家って、この近くだったよね」
サリアの手紙に書かれていた場所は、大学の正門からさほど遠くない。ここからなら帰り道の途中に寄れる。
「ええ。少し回り道になりますが」
「寄っていく」
チェリはそう言って、大学とは少しずれた方角へ歩き出した。




