94 青籠亭再び 元信者の動向
翌朝、朝食から戻ったチェリは外套を手に取った。
「今日は少し街を歩いてくる」
シルヴァーンの鱗を布で拭いていたディラが顔を上げた。
「お一人でですか? ナハヤ様とガンマ様は」
「誘おうと思ったけど、男子棟だとすぐに連絡がつかないから」
昨日の学内郵便の話を思い出したのか、ディラは納得したように頷いた。
「タウラが一緒だから大丈夫。入学式が始まったら、ゆっくり街を見る暇なんてないでしょう」
「それはそうですね。シルヴァーンはお預かりしておきます」
籠の中でシルヴァーンが首をもたげた。チェリが外套を羽織るのを見て、自分も出られるのかと期待するように籠の縁へ前脚をかける。
「ごめんね。今日はお留守番」
チェリが首を撫でると、シルヴァーンは不満そうに喉を鳴らしてから籠の底に丸くなった。ディラが笑って布を持ち直す。
「戻られるまでにぴかぴかにしておきますね」
「お披露目、まだ決まってないってば」
扉の脇ではタウラが待っていた。昨夜、チェリは三通目の手紙をタウラに見せている。行き先も、会う相手も、タウラは承知していた。
女子棟を出て共用棟を抜け、寮の入口へ向かう。守衛が二人立っていて、チェリの顔を見ると軽く頭を下げた。外出の届けは前の晩のうちに出してある。止められることはなかった。
黒寮の黒い石壁を背にして、チェリとタウラは大学の敷地を南へ歩いた。正門を出ると、朝の首都の音が一度に押し寄せてくる。
* * *
青籠亭への道は覚えていた。以前に来た時は宿からだったが、大学からでも繁華街の中央通りに出てしまえば同じ道になる。二つ目の角を西へ曲がり、細い路地を一本入る。
路地の様子は前と変わっていなかった。苔の生えた石畳、看板の少ない店。古書店の主人が店先の本を並べ直している。
木の看板に描かれた青い鳥籠が見えた。
扉を押すと、乾いた鈴の音がした。まだ朝の早い時刻で客はいない。カウンターの奥では、白髪交じりの髪を後ろで束ねたマスターが器を磨いていた。
チェリが声をかける前に、マスターは手を止めずに奥を顎で示した。
「どうぞ」
チェリは小さく頭を下げて暖簾をくぐった。
窓のない個室は前と同じだった。四人掛けの卓と、天井から吊るされた魔道具の灯り。その向こうの椅子に、アリエが座っていた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
アリエは立ち上がって頭を下げた。穏やかな顔も、袖から覗く義手も変わらない。
「入学前のお忙しい時に、申し訳ありません」
「いいの。入学式までは暇だから」
チェリは向かいの椅子に座った。タウラは前と同じように入口の傍に立つ。卓の上には茶が二つ用意されていた。湯気が細く立ち上っている。
「ご入学、おめでとうございます」
「ありがとう」
アリエは右手で茶碗を持ち上げ、一口飲んでから置いた。
「今日お呼びしたのは、大学のことでお伝えしておきたいことがあったからです」
「大学のこと?」
「ええ。教団のことは、以前お手紙でお知らせした通りです」
教団は潰れた。教祖も幹部も、強引な手段を取っていた者たちも、もういない。チェリはその知らせを城で読んでいる。
「あの手紙の終わりに、教えを信じる者は残るので注意するように、と書きました」
「うん。覚えてる」
「そのことを、訂正しておきたかったのです」
チェリは瞬きをした。
「あの時はまだ、残った者たちがどう動くか分かりませんでした。ですから念のため、ああ書いたのです。あれから少し調べました」
アリエは右手を茶碗から離した。
「大学の中にも、元は教団にいた者や、教えに近い信仰を持っていた者がおります。学生にも、それ以外にも。数は多くありません」
「……大学に?」
「誰がそうだ、とは申し上げません。申し上げる必要もなさそうです」
アリエの声は穏やかだった。
「その者たちは、竜を敬っているだけでした。青い眼の竜を神として崇めることを教えたのは教団です。ですが、竜を畏れ敬う気持ちそのものは、東の地には教団ができる前からありました。教団がなくなって、その元の形に戻っただけの者がほとんどです。強引な真似をしそうな者は見当たりませんでした」
「じゃあ、注意しなくてもいいってこと?」
「身構えるほどのことはない、というくらいでしょうか」
アリエは少し言葉を選んだ。
「シルヴァーン様をご覧になれば、心を動かされる者はいるでしょう。遠くから手を合わせたり、じっと見つめたり。そういうことはあるかもしれません」
チェリは中央領へ来る道中のことを思い出した。街道の街で、人通りの向こうからこちらへ祈っている男がいた。タウラが立ち位置を変え、ディラが身を固くした。男はそれ以上近づいてこなかった。
「前の手紙のせいで、そういう者を見かけるたびにチェリ様が身構えることになっては申し訳ないと思いまして」
「……分かった」
チェリは頷いた。
「見かけても、怖がらなくていいのね」
「はい。少なくとも、私が知る限りでは」
アリエは茶碗の縁に指を添えた。
「お知らせしたかったのは、それだけです」
「それだけのために呼んだの?」
「手紙に書くと、読まれた時に困る内容でしたので」
アリエは何でもないことのように言った。誰に読まれると困るのかは言わなかった。
チェリは茶を一口飲んだ。前に来た時と同じ、香ばしいよく知らない茶だった。
茶碗を置いて、改めて向かいの男を見る。
国からも追われている身だと、前に会った時に本人が言っていた。それなのに首都の真ん中の喫茶店で、こうして朝から茶を飲んでいる。考えてみれば、前に会った時からずっとそうだった。
「ねえ、アリエ」
「はい」
「前から不思議だったんだけど」
チェリは少し身を乗り出した。
「どうしてあなた、捕まらないの」
アリエが瞬きをした。
「国からも追われてるんでしょう。それなのに城にも入れたし、大学にも出てくるし、見送りの時だって」
城を発った朝のことだ。あれは確かにアリエだった。人垣の後ろで手を振っていて、もう一度見た時には消えていた。
「いたでしょう、あの時」
「お気づきでしたか」
「気づくわよ。手を振ってたじゃない」
アリエは小さく笑った。それから、少しだけ考えるように視線を卓の上に落とした。
入口の傍で、タウラが姿勢を変える気配がした。タウラもまた、答えを聞きたいのだろう。
アリエは顔を上げた。
「……天授です」




