93 西領主の一族 黒寮での扱い
夕食の刻限より少し早く、チェリは共用棟の食堂に下りた。
昼の交流会の名残はもう片づけられている。扇形に並んでいた椅子は元の位置に戻り、壁際に寄せられていた長卓も食堂らしく等間隔に並べ直されていた。まだ席についている寮生はまばらで、厨房のほうから皿の触れ合う音が聞こえてくる。
チェリは入口の見える卓の端に座った。タウラは少し離れた壁際に立っている。
ほどなくして、男子棟側の扉からナハヤとガンマが入ってきた。チェリが手を上げると、二人はまっすぐこちらへ来た。
「早いな」
「待ってたの。話があって」
ガンマが向かいの椅子を引いた。ナハヤはその隣に座ると、懐から封筒を一通取り出して卓に置いた。
「これのこと?」
差出人の欄に天授奉明室とある。チェリは頷いた。
「やっぱり来てたんだ」
「俺のとこにも来てたぞ」
ガンマが言った。
「いつでも来ていいって書いてあったから、明日にでも行ってみようかと思ってた」
「だと思った」
チェリとナハヤの声が揃った。ガンマは不服そうに眉を寄せた。
「なんだよ。ヤシャーク兄が言ってたのは、嫌なら断れってことだろ。行ってみなきゃ嫌かどうかも分かんねえじゃん」
「行ったら断れなくなるって話だったでしょ」
「ヤシャーク兄だからじゃねえの」
それは否定しにくかった。ナハヤが封筒の端を指で揃えながら口を開いた。
「行くなとは言わないよ。ただ、一人で行くのはやめたほうがいいと思う」
「行くなら三人一緒に」
チェリが続けると、ガンマは少し考えてから頷いた。
「まあ、それならいいか」
「勝手に行かないでね」
「行かねえよ」
話がまとまったところで、食堂の入口が賑やかになった。
「チェリ!」
よく通る声だった。振り向かなくても誰かは分かった。
ハリュナルが大股で近づいてくる。その後ろをナツァークが少し遅れてついてきた。二人とも院生なので昼の交流会には出ていない。ハリュナルは研究室の用事で来られなかったことを、今朝までさんざん嘆いていた。
「待っていてくれたのか」
「待ってたのはガンマとナハヤ」
「そうか!」
ハリュナルは少しも気にした様子を見せなかった。チェリの隣の椅子を引いて腰を下ろし、嬉しそうにチェリの顔を眺める。
チェリが寮に入ってから、ハリュナルは毎日こうだった。朝と夕に食堂へ来れば必ずチェリの顔が見られる。それだけのことで一日中上機嫌でいられるらしい。
「交流会はどうだった」
「……普通」
「普通か。そうか。誰かに意地悪をされたりはしなかったか」
「大丈夫」
チェリは即答した。ナハヤが卓の下でガンマの足を踏んだらしく、ガンマが小さく唸った。
ハリュナルは気づかなかった。通りかかった院生仲間に呼び止められて、そちらへ顔を向けている。
その隙に、チェリの反対側にナツァークが立った。身を屈めて、チェリの耳元で声を落とす。
「ムシュクルのこと、聞いた」
チェリはぎくりとして兄を見上げた。
「……誰から」
「何人か。主に西の出の者たちだ。私に言っておいたほうがいいと思ったらしい」
ナツァークはハリュナルのほうへちらりと目をやった。
「兄上には誰も言っていない」
「……だよね」
「言えばどうなるか、皆分かっているからな」
それでナツァークのほうに話が集まったらしかった。
「ヤシャークからも来た」
「ヤシャーク兄様から? でも、今日はもう喉を使ったって」
「手紙だ」
「……なるほど」
声を出さなければ喉は減らない、ということらしい。
チェリは頷きかけて、ふと引っかかった。
「ねえ、ナツ兄様」
「なんだ」
「ナル兄様がどういう人か、皆知ってるってこと?」
ナツァークは少し黙った。それから、兄の背中を見ながら言った。
「黒寮の中なら、だいたいは」
「だいたい」
「二年以上なら、兄上から直接聞かされている。妹がどれほど可愛いか、どれほど賢いか、どれほど――」
「待って」
チェリは両手で顔を覆った。
入学する前から、そんなふうに知られていたのか。会ったこともない上級生たちに、兄の口から、どれほど可愛いか、どれほど賢いか。
「……じゃあ、あの二人って」
求婚してきたムシュクルも、噛みついてきたアニャンドラも。あれはもしかすると、兄が吹き込んだ妹の姿を、先に頭の中に作っていたせいではないのか。
「全部ナル兄様のせいなんじゃないの」
「全部とは言わないが」
ナツァークは否定しなかった。
「学園生活、始まる前からだいぶ損してない?」
「こんなことを言うのはなんだが」
ナツァークは静かに言った。
「まだましだ。私が入学した時は――」
そこで言葉が途切れた。続きはなかった。
チェリは兄の顔を見上げた。ナツァークは遠くを見ている。
ナツァークが入学した時、ハリュナルは既に大学にいた。そして今のように兄を止める者は、まだ誰もいなかった。
それ以上は聞かなかった。聞かなくても分かった。
「……大丈夫だ」
ナツァークがチェリの肩に手を置いた。
「誠実に過ごしていれば、いずれ皆分かってくれる。『ハリュナルよりは、まともだ』と」
その目は、ずいぶん遠いところを見ていた。
「西の領主一族は変わり者ばかりと思われているんだ。変わり者と思われるようなことをしなければ、皆に良い人だと思ってもらえる」
チェリはしばらく何も言えなかった。ヤシャークもあの調子なのだから、変わり者と思われているに違いない。
そもそも、最年少で入学してきた自分たちだって、相当な変わり者だと受け取られているのではないだろうか。
そんなことを考えながら俯いていると、卓の上に置かれたナハヤの封筒が目に留まった。
「そうだ、ナツ兄様。ミクラ教授って知ってる?」
「天授奉明室の」
「その人から手紙が来たの。三人とも」
ナツァークは封筒を見て、ああ、と小さく頷いた。
「私のところにも、入学してすぐ来た」
「行ったの?」
「行った。少し手伝った」
「何をするの?」
「大したことはしていない。危ないことをさせられるわけではないから、そこは心配しなくていい」
ナツァークはそれ以上詳しくは言わなかった。
「嫌なら断ればいい。無理に引き留める人ではない」
ヤシャークの話とは少し違う。チェリがそう思っていると、ナツァークは付け足した。
「ただ、話は長い」
「ナル兄様は?」
「兄上は……」
ナツァークは言いかけて、ハリュナルのほうを見た。ハリュナルはまだ院生仲間と話し込んでいて、何がおかしいのか声を立てて笑っている。
「張り切って行った。本人は結果にずいぶん満足していた。しばらく自慢されたから、私はよく覚えている」
チェリはナハヤと顔を見合わせた。ガンマだけが「へえ、面白そうだな」と身を乗り出していた。
「三人で行くんだからね」
「分かってるって」
ハリュナルが話を終えてこちらへ向き直った。
「すまない、チェリ。待たせたな。さあ食べよう。今日は何だろうな」
厨房のほうから、夕食の皿を運ぶ使用人たちが出てきたところだった。
チェリは卓に額をつけた。
「どうした、チェリ。疲れたのか」
「……ちょっとだけ」
「無理もない。初めての交流会だったからな」
ハリュナルが心配そうにチェリの背中をさすった。ナツァークは黙って向かいの席に座った。




