91 従兄との会話 三人への忠告
「……あの」
聞き取れるぎりぎりの小さな声だった。
解散の告げられた食堂で、壁際に寄ったチェリたちの背後に男子学生が一人立っていた。背が高く細身で、長めの金髪が肩にかかっている。女子と見紛うほど整った顔を少し俯け、両手を体の前で重ねていた。
最初に気づいたのはナハヤだった。
「……ヤシャーク兄様」
名を呼ばれて男子学生の肩がわずかに下がった。張り詰めていたものが抜けたような動きだった。
「よかった。覚えててくれた」
声は小さい。周りの話し声に紛れて、耳を寄せなければ聞き取れないほどだった。
「誰だ? って言われたらどうしようかと思ってた」
「さすがに覚えてます。親族の集まりで何度も会ってますから」
ナハヤが答えると、ヤシャークは困ったように笑った。それから姿勢を正して小さく頭を下げる。
「ヤシャークです。音楽科の二年。改めて、よろしく」
チェリは相手の顔を見上げた。
エルナダの孫だということは知っている。親族の集まりで何度か見かけてもいる。けれどこうして正面から向き合うのは初めてかもしれなかった。
近くで見ると本当にエルナダに似ていた。目元の柔らかさも、首を少し傾ける癖も、まとっている空気まで同じだった。髪を結い上げてドレスを着せれば、若い頃のエルナダだと言われても信じてしまいそうだった。
「チェリです。お久しぶりです」
「ガンマです」
ガンマが名乗ると、ヤシャークの視線がほんの一瞬だけ泳いだ。すぐに戻って小さく会釈する。
「こちらはキャエラ。同じ一年で、試験の時に知り合ったんです」
チェリが紹介すると、キャエラは慌てて頭を下げた。
「キャエラ・シェーカーです」
「よろしく」
ヤシャークは同じように小さく頭を下げた。キャエラは顔を上げたまま、しばらくヤシャークの顔に見入っていた。
「さっきまで、どこにいたんですか」
チェリが尋ねた。
「交流の時間に話しかけてくれればよかったのに」
「人が多いところは、あまり得意じゃなくて」
ヤシャークは両手の指を軽く組み直した。
「それに、あの二人がいたから」
「……ムシュクルとアニャンドラ?」
「うん。あの二人は、ちょっとね」
ガンマが鼻を鳴らした。
「絡まれたのは俺たちのほうなんだけどなあ」
「そうだよね。ごめん」
ヤシャークは素直に謝った。ガンマのほうはあまり見ていなかった。
「ずっと壁のところで見てたんだ。人が減るのを待ってた」
「全然気づかなかった」
「目立たないようにしてたから」
それは得意なのだと言いたげな口ぶりだった。
チェリは城を発つ朝のことを思い出した。
「そうだ。エルナダおばあさまが心配してました」
「あ、うん……」
ヤシャークの返事が一拍遅れた。
「……そうだね」
「ちゃんと食べているか見てきてほしいって」
「うん……」
声がさらに小さくなった。目が床のほうへ落ちていく。心配をかけている自覚はあるらしかった。
「食べてます?」
「あっ、うん……」
「……」
明らかに、食べてなさそうな言い方だった。
「歌っていると時間を忘れるから……」
ナハヤが小さく溜息をついた。ヤシャークはその音にも肩をすくめた。
キャエラがそっと一歩下がった。
「あの、私はそろそろ部屋に戻ります。ご家族のお話みたいですし」
「気にしなくていいのに」
「いえ、今日はもう、いろいろありすぎたので……」
キャエラは曖昧に笑って頭を下げた。ヤシャークにも小さく会釈をして、扉のほうへ足早に向かっていった。
「やっぱり領主の一族と一緒にいると、気を遣って疲れるんだと思うよ」
ナハヤが言うと、チェリは不満そうな顔をした。そのままヤシャークのほうへ向き直る。
「兄様もそうなんですか? 周りに気を遣われてるんですか?」
「うーん、うちの科は変わり者が多いから、そうでもないかも……実力が物を言うところだし」
ヤシャークは視線を上に向けた。誰かを思い浮かべているようだった。
「音楽科でしたよね。どんなことをするんですか」
ナハヤが尋ねると、ヤシャークの顔が少し明るくなった。
「楽器を弾いたり、曲を作ったり。昔の曲を調べたり、音楽の理論の研究もするけど、僕は歌を歌っていることが多いかな」
「ヤシャーク兄様は歌が専門なんですね」
「うん。歌が一番得意」
そこだけは迷いのない声だった。相変わらず小さな声なのに、ほかの言葉より少しだけ輪郭がはっきりしていた。
「講義の建物が離れてるから、たぶん授業ではあまり会わないと思う。でも寮は同じ黒だから」
「じゃあここで会えますね」
黒寮の居室は男子棟と女子棟に分かれているが、食堂のあるこの共用棟は男女どちらも使える。朝夕の食事の時間に来れば顔を合わせる機会はいくらでもあった。
「うん。部屋にいることが多いけど」
ヤシャークはそこで一度周りを見回した。何かを確かめるような目つきだった。
「今日は、ハリュナル兄様がいなくてよかった」
「え?」
「いたら、声をかけてなかったと思う」
穏やかな顔のままはっきり言われて、チェリは言葉に詰まった。
ナル兄様、嫌われてるなあ。
そう思ったが、責める気にはなれなかった。あの兄が大声でチェリの話を始めたら、この人は壁際からさらに遠くへ逃げていっただろう。仕方ない、とチェリは思った。
「ナツ兄様なら平気ですか」
「ナツ兄様は好き。静かだからね」
即答だった。ガンマが横で吹き出しかけて、ナハヤに肘で止められていた。
ヤシャークは組んでいた指をほどいた。それから少しだけ声を落とす。
「そうだ、時間切れまでに、一つだけ。言っておきたいことがあって」
(……時間切れ?)
チェリたちは自然と身を寄せた。
「ミクラ教授っていう人がいるんだ。神学系の、天授奉明室の人」
「天授……」
ナハヤが小さく繰り返した。
「天授の研究者。お祖父様の血筋の子が入学すると、必ず声をかけてくる」
「必ず? どうして?」
「必ず。お祖父様の家系はあの人の研究対象みたいで」
ヤシャークの眉がわずかに下がった。
「はっきり誘ってくるわけじゃないんだ。気になるような言い方をして、近づいたら断れないように誘導されて、それで……」
続きは言わなかった。言わなくても、どうなったかは顔を見れば分かった。
「嫌だったら、最初にちゃんと断ったほうがいい。はっきり言えば無理には来ない、と思う」
「ヤシャーク兄様は、断れなかったってことですか」
ナハヤが尋ねると、ヤシャークは目を逸らした。
「……そう」
それからヤシャークは片手を喉に当てた。軽く咳払いをする。
「ごめんね。時間切れ。今日の分の喉、もう使っちゃった」
「今日の分?」
「喉のために、今日はもう喋らない。また今度。そのうち、竜を見せてね」
小声で言い終わると、ヤシャークはどこからかスカーフを取り出して口元に巻きつけた。小さく手を振って、三人が何か言う前に背を向ける。
人のまばらになった食堂を静かに横切っていき、扉のところで一度だけ振り返った。もう一度手を振って、そのまま出ていった。
三人はその場に立ったまま、閉まった扉を見ていた。
ヤシャークは歌のために喉を大事にしすぎている人だ、ということだけは三人ともよく分かった。
「……変な人」
チェリがぽつりと言った。
「うん」
ナハヤが頷いた。
ガンマは腕を組んで首を傾げた。
「なんか、顔だけじゃなくて、ああいうとこもエルナダおばあさまに似てるよな」
チェリはエルナダの顔を思い浮かべた。ヤシャークを頼れと言っておきながら、すぐに様子を見てきてほしいと言い出した別れ際のこと。制服が地味な色だと知って落胆し、代わりに外出着を仕立てると言い出した時のこと。
「……マイペース」
チェリが言うと、ナハヤが小さく吹き出した。




