90 友達の申し出 竜のお披露目
チェリは周りを見回した。
ナハヤはまだ肩に力が入っている。ガンマは状況を掴み損ねたまま突っ立っている。キャエラは杯を抱えたまま、じりじりと後退を続けていた。
セティーシェとカニャーラは、笑顔のまま睨み合っている。
このままでは、誰も得をしない。
それに、とチェリは思った。
この人と険悪になりたいわけではない。むしろ逆だった。
「待って、セティ姉様」
チェリは二人の間に体を入れるようにして前に出た。
「私、アニャンドラと友達になりたいの」
場が止まった。
最初に反応したのはカニャーラだった。
口元に手を当てて、それから堪えきれずに肩を震わせ始めた。
「お友達ですって、アニャ」
「な、な、なんでそうなるのよ……!」
アニャンドラの声が裏返った。
「私は今、あなたに文句を言いに来たのよ! どこをどう聞いたら友達の話になるの!」
「さっき、話がしたいって言ったでしょ」
「聞いたわよ! 聞いたけど!」
アニャンドラは両手を握りしめた。
「そういう意味じゃないでしょう普通は!」
「普通って?他に意味があるの?」
「うう……もうっ!」
セティーシェが扇子を下ろした。
先ほどまで目だけが笑っていなかった顔から、その冷たさが抜けている。毒気を抜かれた、という顔だった。
「……チェリさん」
「はい」
「あなた、本気で仰っているのね」
「本気です」
セティーシェは扇子で口元を隠して、小さく息を吐いた。
ナハヤが額に手を当てている。ガンマは目を見開いていた。
「そうだったのか!」
「ガンマ、うるさい」
「いや、そういう話だったのかと思って」
「途中から何も分かってなかったくせに」
キャエラは三人の顔を順に見て、それから助けを求めるように周囲を見回したが、誰も説明してくれる者はいなかった。
カニャーラが従妹の背中を軽く押した。
「アニャ」
「な、なによ」
「あちらは仲良くしたいそうよ。あなたはなんとお返しするのかしら」
「う」
「せっかくのお申し出でしょう」
「う、う……」
アニャンドラの顔が、首から一気に赤くなっていった。目があちこちに泳ぐ。口が開いては閉じ、また開いた。
全員が黙って待っていた。
アニャンドラは限界まで赤くなって、それから叫んだ。
「と、友達になってあげてもいいわよっ!」
叫ぶと同時に身を翻した。
「アニャ」
「知らない! もう知らない!」
アニャンドラは人垣を割って、食堂の出口へ走っていった。振り返りもしなかった。学生たちが慌てて道を空ける。
その背中が扉の向こうに消えた。
カニャーラはしばらくその方角を見ていたが、やがてこちらに向き直って、優雅に一礼した。
「それでは皆様、ごきげんよう」
彼女もまた、ゆったりとした足取りで出ていった。
残された者たちの間に、奇妙な静けさが広がった。
「……あれ?」
チェリは首を傾げた。
「もっと話したかったのに。課題のこととか、聞きたいことがたくさんあったんだけど……」
「チェリ」
ナハヤが低い声で言った。
「本当に友達になりたいと思ったの?」
「……? 本当だけど」
「あんなことを言う奴だよ」
「うーん、悪い子に見えなかったけどなあ……」
「ズレてる……」
ナハヤは深くため息をついた。ガンマは杯に残った果実水を飲み干している。
チェリの様子を見ながら、セティーシェが扇子を閉じた。
「一番のトラブルメーカーはチェリさんかもしれないわね……」
小さな声だった。チェリには聞こえなかった。
周囲の学生たちも、それぞれの会話に戻り始めている。ただ、こちらを遠巻きに見ている視線がいくつも残っていた。
チェリはふと思いついて顔を上げた。
「そうだ、セティ姉様」
「はい?」
「友達なら、シルヴァーンを紹介してもいいのかしら」
セティーシェの動きが止まった。
扇子を持つ手が下がり、眉が寄る。今日初めて見る、はっきりと困った顔だった。
「……チェリさん」
「だめ、ですか?」
「だめというより」
セティーシェは言葉を探すように少し黙った。
「その前に、決めておかなければならないことがありますわ」
「決めておくこと?」
「竜を、いつ、どのように、誰に見せるのか」
セティーシェは声を落とした。周りに聞かせる話ではないと判断したらしい。
「チェリさんが竜を連れてきていることは、もう寮中が知っております。隠せるものではありませんもの。ですが、実際にその姿を見た者はまだほとんどおりません」
「うん」
「だから皆、想像しているのです。どれほど大きいのか、危険なのか、近づいて平気なのか。想像のほうが事実より大きくなるのは、よくあることですわ」
ナハヤが頷いた。
「先に見せたほうがいい、ということで?」
「そういう考え方もあります」
セティーシェは扇子の先で軽く自分の肩を叩いた。
「一度きちんと皆にお見せして、この程度のものだと分かれば、余計な噂は減ります。ただ、見せ方を間違えれば逆になりますわね」
「黒寮だけで見せるのか、大学全体で見せるのか」
ナハヤが続けた。
「黒寮だけなら、他寮から見れば秘密のままだから、かえって話が膨らむかもしれない」
「大学全体でとなると、大事になるな」
ガンマが言った。
「人がどれくらい集まるか分かんねえぞ」
「そうですわね」
セティーシェが頷いた。
「それに、竜をどこに置くかという話にも繋がります。今は寮のお部屋にいらっしゃるのでしょう。けれど、あの子が大きくなればそうもいきませんわ」
チェリは黙って聞いていた。
考えていなかったわけではない。ただ、城を出る前に考えていたのは、竜を連れていく許可が下りるかどうかまでだった。連れてきた後のことは、大学と相談することになると聞かされていただけで、具体的な形は何も決まっていない。
「セティ姉様は、どうしたらいいと思う?」
「わたくしの一存では決められません」
セティーシェははっきり言った。
「これは寮全体の話になりますし、場合によっては大学全体の話になります。少なくともオクタス様と、寮監のお二人には諮らなければ」
「そっか」
「わたくしから話してみますわ。オクタス様にも、寮監にも」
セティーシェはチェリを見た。
「まとまったら、また声をかけます。それまでは、竜を寮のお部屋から出すのはお控えになって」
「分かった」
「それと」
セティーシェが付け加えた。
「アニャンドラさんへのご紹介も、それからにしてくださいませね」
「はあい」
その時、壇の上で手を叩く音がした。
寮監のスクティールが立っている。
「時間だ。これで解散とする」
短い言葉だった。学生たちが動き始める。椅子を戻す者、まだ話し込んでいる者、扉へ向かう者。
セティーシェは壇のほうへ向かいながら、振り返って言った。
「では、また後で」
扇子を軽く振って、人の間に消えていった。
チェリは残った三人と共に、壁際に寄った。
「結局、あんまり誰とも話せなかったな」
ガンマが言った。
「そうだね」
ナハヤが答えた。
それは事実だった。この場にいる間、チェリたちに近づいてきたのはムシュクルとアニャンドラ、それにセティーシェとカニャーラだけだった。他の学生は誰一人として声をかけてこなかった。
視線は感じる。あちこちから、ちらちらと向けられている。けれど、目が合うとすぐに逸らされた。
遠巻きにされている。
チェリは特に何も感じなかった。領内の社交の場で何度も経験したことがある。皆が遠くから見て、近づいてこない。話しかけてくるのは少数の親しい人たちだけ。そういう場には慣れている。
「部屋に戻る?」
チェリが聞くと、ガンマが伸びをした。
「もうちょっといてもいいけどな。腹も減ってねえし」
「僕はどちらでも」
ナハヤが答えた。
「キャエラは?」
声をかけると、キャエラはびくりと肩を揺らした。
「わ、私は、その、もう少し心を落ち着けたいというか」
「そんなに?」
「今日一日で一年分くらい驚いたので……」
キャエラがようやく杯を長卓に戻した。ずっと握りしめていた指に、跡がついていた。
その時、背後で足音がした。
小さな足音だった。ゆっくりと、遠慮がちに近づいてくる。
チェリが振り返ると、男子学生が一人立っていた。
背は高い。けれど、体つきは細かった。長めの金髪が肩にかかっている。顔立ちが驚くほど整っていて、一瞬、女子かと思うほどだった。目元が柔らかく、全体に優しげな雰囲気をまとっている。
彼は両手を体の前で軽く重ねたまま少しだけ俯いて、こちらを見ていた。
そして、聞き取れるぎりぎりの声で言った。
「……あの」




