89 張り合う少女 トラブルの収拾
「チェリーチェ・バイフート!」
今日二度目の名指しだった。チェリは思わず身構えた。
「私はアニャンドラ・サンローネ。二年生よ」
名乗りは早口だった。赤い髪を左右に分けて高く結い上げている。背はチェリとそう変わらないのに、見上げてくるのではなく、真正面から視線をぶつけてくる。
サンローネ。東の領地と同じ家名だった。チェリは目の前の相手が東の領主の縁者だと理解した。
「入学おめでとうと言っておくわ」
「あ……ありがとう」
「それで」
アニャンドラは腕を組んだ。
「あなた、十二で合格したそうね」
「今年十三になるけど」
「ふうん」
鼻で息を吐いた。
「私は十三で入ったのよ。去年ね」
「そうなんだ」
「一年の違いね」
アニャンドラは顎を上げた。
「たった一年。それも、私が十三だった時にあなたは十二だったというだけのこと。入る年が一つ違ったからといって、そこにどれほどの差があるのかしら」
チェリは黙って聞いていた。
「合格した時期が早いからといって、学ぶ力が上とは限らないでしょう。私は去年の学年で上位にいるの。あなたはまだ何もしていない。これから何をするかも分からない」
言葉が次々に出てくる。用意してきたのかもしれなかった。
「だから、入った年だけで持ち上げられるのは間違っていると言いたいの」
チェリは相手の顔を見上げていた。
胸の内側に、思いがけないものが湧いていた。
嬉しい、と思った。
この人は、お祖父様の話を一度もしていない。西の英雄の名も、領主の孫娘という肩書きも、一言も出てこない。ただ、何歳で入ったか、どれだけ学んだか、その一点だけで自分に噛みついてきている。
城にいた頃から、そんなふうに向き合われたことはほとんどなかった。誰も彼もが祖父の名を先に置いて、その後ろに自分を見た。
この人は違う。
「あなた、名前はアニャンドラでいいの?」
「そう言ったでしょう」
「アニャンドラ。私、あなたと話がしたい」
「はあ?」
アニャンドラの眉が跳ね上がった。
「今、話しているじゃない」
「そうじゃなくて。もっとちゃんと」
チェリは一歩前に出た。
「去年の講義のこと教えてほしいの。どの科目が難しかったとか、どの先生の課題が重いとか。一年先に入ってるなら知ってるでしょう」
「……なぜ私が」
「知りたいから」
アニャンドラの口が半分開いた。それから、勢いよく閉じた。
「あなた、人の話を聞いていた?」
「聞いてたよ。一年の差なんて大したことないって話でしょう」
「そうよ。分かっているなら」
「だから同じくらいだと思って聞いてるの」
アニャンドラの顔がみるみる赤くなった。
「……やりにくいわね」
「そう?」
「そうよ!」
アニャンドラの声が大きくなった。周りの何人かがこちらを見た。
ナハヤが小さく身じろぎした。ガンマは杯を持ったまま、話の流れを追いかねている顔をしている。
「大体、あなた」
アニャンドラは矛先を変えた。
「さっきの騒ぎ、何なの」
「……?」
「ムシュクルよ。あんなところであんな大声を出させて。寮中の視線を集めて。気分が良かった?」
チェリは首を傾げた。
「私が言わせたわけじゃないんだけど」
「でもあなたに言っていたでしょう」
「言われたほうが悪いの?」
「そうは言っていないわ!」
アニャンドラは言葉に詰まった。詰まったまま、目だけが動いた。チェリの両脇に立つ二人を見た。
そこで、口が滑った。
「大体あなた、男を二人も侍らせて。そうやっていい気になっているのではないの」
アニャンドラはガンマとナハヤを交互に指差した。
空気が変わった。
チェリが何か言う前に、横から声が出た。
「は?」
ナハヤだった。
いつもと同じ静かな声だった。表情もほとんど変わっていない。ただ、言葉が出てくる速さがいつもと違った。
「侍らせてって何。僕たちは従兄だけど。チェリの父上の兄の子が僕で、弟の子がガンマ。血縁として一番近い同年代がたまたま二人とも男だったというだけの話で、そこに侍るも侍らないもない」
「な、何……」
「同じ寮で同じ学年だから同じ場所にいる。それだけのことを侍らせていると言うなら、あなたが同じ学年の誰かと歩いていても同じ言い方をされることになるけど、それでいいの」
「ちが……」
「それとも、女が男と一緒にいたら必ずそういう見方をされるということ? だとしたらそれは僕たちの話じゃなくて、あなた自身の物の見方の話だと思うけど」
アニャンドラの顔から赤みが引いた。
チェリは横目でナハヤを見た。表情は静かなままだ。けれど、これは怒っている時のナハヤだった。言葉が途切れない時のナハヤは、たいてい本気で怒っている。
「ナハヤ」
チェリが袖を引いたが、ナハヤは止まらなかった。
「さっきの騒ぎのことも、チェリのせいにするのはおかしい。勝手に来て勝手に騒いで勝手に連れて行かれたのは向こうだ。そこにチェリの落ち度があると言うなら、具体的に何をしたのか教えてほしいんだけど?」
「……っ」
アニャンドラは何も言い返せなかった。
「なあ」
ガンマが横から口を挟んだ。
「さっきから言ってる侍らせるって、どういう意味だ?」
全員がガンマを見た。
「いや、分かんねえから聞いてるんだけど。俺たち何かしたのか?」
「……ガンマは黙ってて」
ナハヤが額を押さえた。
* * *
その間、セティーシェは一言も発していなかった。
彼女は扇子を閉じたまま、静かに会話を聞いていた。口元には笑みがある。切れ長の目も細められている。穏やかな表情だった。
チェリはその横顔を見て、背筋が寒くなった。
これは、さっきムシュクルに向けていた顔と同じだった。
「アニャンドラさん」
セティーシェが口を開いた。声は柔らかい。
「少しよろしいかしら。わたくし、寮長として申し上げたいことが――」
「セティーシェさん」
別の声が、セティーシェの後ろから割って入った。
人の間から、一人の女子学生が進み出てくる。
背が高く、ゆったりとした歩き方をしている。赤みのある髪を緩く結い上げていた。顔立ちはアニャンドラとどこか似ているが、目つきが柔らかい。四年生の落ち着きがあった。
彼女はセティーシェの前に立つと、静かに頭を下げた。
「カニャーラ・サンローネです。アニャンドラの従姉にあたります」
「存じておりますわ」
「うちの従妹が失礼を申し上げました。この場は、どうか許してやってくださいませんか」
アニャンドラが弾かれたように振り返った。
「ニャーラ姉様……!」
「アニャ」
「私、別に、そんな、揉めるつもりなんてなかったのよ!」
アニャンドラの口調が変わった。さっきまでの勢いが半分になっている。
「ただ話をしに来ただけで。寮長がいらっしゃる場所でわざわざ問題を起こすわけないでしょう。分かるでしょ、ニャーラ姉様」
「後で聞きます」
「聞いてよ今!」
カニャーラは従妹を見もせずに、セティーシェから目を離さなかった。
「カニャーラさん」
セティーシェが微笑んだ。
「ご心配なさらなくても、わたくし、まだ何も申し上げておりませんわ」
「ええ。まだ、ですわね」
カニャーラも微笑み返した。
「セティーシェさんがお口を開かれる前に参りましたので」
「あら、それは偶然ですこと」
「ええ、偶然ですわ」
二人はしばらく微笑み合っていた。
周りの誰も口を挟まなかった。
「けれど、寮長として一言も申し上げないわけには」
「まだ入学式の前ですもの」
カニャーラが遮った。柔らかい声だった。
「顔を合わせたばかりで、誰が誰かも分かっていない子がほとんどです。今日のところは大目に見て差し上げては」
「わたくし、先ほど壇の上で問題を起こすなと申し上げましたけれど」
「ええ。素晴らしいお言葉でしたわ。皆、しかと聞いておりました」
「聞いた上でこうなっておりますわね」
セティーシェの声はどこまでも柔らかい。
「先ほどのジューチェ家の方には、お言葉をかけられまして?」
カニャーラが小首を傾げた。
「あの方は男子寮長が連れて行かれましたわ」
「まあ。では、こちらで処理なさる前に片がついたのですね」
「そうなりますわね」
「でしたら」
カニャーラはアニャンドラの肩に手を置いた。
「わたくしが同じようにいたします。この子は従姉のわたくしが連れて帰って、よく言い聞かせます。寮長のお手を煩わせるまでもございませんでしょう」
セティーシェの扇子が、指の中で一度だけ回った。
「オクタス様と同じ扱いをお求めになると」
「同じ寮の身内が引き取るという意味では、同じかと」
「あちらは寮長ですわ」
「ええ。ですからあちらは職務で、わたくしは身内の情で。理由が違うだけで、結果は変わりませんわ」
カニャーラは頭を下げた。深くはない。けれど、引く気がないことがはっきり分かる角度だった。
扇子が開いた。セティーシェが口元を隠す。
目だけが笑っていなかった。
カニャーラも笑顔のまま、一歩も引かなかった。
チェリは二人の間に挟まれた空気を見ていた。
言葉はどこまでも丁寧だった。どちらも声を荒らげていない。微笑んでいる。それなのに、この一角だけ息が詰まるほど重たかった。
ガンマが小声で言った。
「……なんか怖くねえ?」
「だから黙ってて」
ナハヤが同じくらい小さな声で返した。
アニャンドラは従姉の背中の後ろで、居心地悪そうに立っている。
そして。
キャエラが、両手で持った杯を握りしめたまま、一歩ずつ、じりじりと後ろに下がっていた。
その顔は完全に青ざめていた。




