88 不測の事態 寮長の手打ち
「はじめまして。ようやくお会いできましたね――チェリーチェ・バイフート」
南領主の孫息子、ムシュクル・ジューチェだった。
チェリは黙って相手を見上げた。名乗られてもいないのに、本名で呼ばれた。
「あの、あなたは」
「ムシュクル・ジューチェ。南の領主の孫だ」
名乗りながら、彼は一歩距離を詰めてきた。
その距離が近い。丁寧に頭を下げた時よりも、明らかに近い。チェリは半歩下がりたくなったが、後ろは椅子だった。
「以前から話は聞いていた。西の英雄の孫娘が、十二で入学したとな」
「……はい」
「実際に会ってみると、噂以上だ」
ムシュクルは満足そうに頷いた。それから、胸に手を当てて、また芝居がかった仕草で顔を上げる。
「単刀直入に言おう」
チェリはわずかに眉を寄せた。
「チェリーチェ・バイフート。オレと結婚しろ」
* * *
誰も、何も言わなかった。
周囲の話し声はまだ続いている。けれど、この五人の周りだけ音が抜け落ちたようだった。
チェリは口を半分開けたまま、相手の顔を見ていた。今、何を言われたのかがすぐには繋がらない。
ナハヤの表情が完全に止まっている。ガンマは杯を持ったまま、瞬きもしていない。
かしゃん、と音がした。
キャエラの手から杯が落ちて、床で跳ねた。水が絨毯に染み込んでいく。キャエラ本人は拾おうともせず、口を開けたままムシュクルを見上げていた。
そして。
ぴき、と別の音がした。
乾いた、硬いものが軋むような音だった。ぴき、ぴき、と続く。
チェリは音の出どころを探した。ガンマも、ナハヤも、同じように首を巡らせている。
音は、すぐ隣から鳴っていた。
セティーシェが持っている扇子だった。
閉じたままの扇子の骨が、内側から押されるように軋んでいる。薄い光が骨の間を這っていた。魔力だった。セティーシェの手の中で、扇子が悲鳴を上げていた。
チェリはゆっくりと視線を上げた。
セティーシェは笑っていた。
切れ長の目を柔らかく細めて、口元にも笑みがある。壇上で挨拶をしていた時よりも、ずっと穏やかな顔だった。
その笑顔のまま、彼女は言った。
「ムシュクルさん」
声も柔らかい。
「わたくし、たった今、問題を起こしてくれるなとお願いしたばかりだったと思うのですけれど」
ぴき、と扇子がまた鳴った。
「これが問題でなければ、何を問題と呼べばよろしいのかしら」
チェリは無意識に半歩下がった。今度は椅子に踵をぶつけなかった。ガンマとナハヤも、いつの間にか同じだけ下がっている。
ムシュクルだけが、その場に立ったままだった。
彼は本当に、心当たりがないという顔をしていた。眉を寄せて、セティーシェを見て、それからチェリを見て、また戻す。
「なぜだ。オレは正式に申し込んだ」
「どこが……」
セティーシェの笑みが深くなった。扇子の軋みも深くなった。
「そこまでだ」
低い声が、ムシュクルの背後から降ってきた。
大柄な影が、人の間を割って歩み出てくる。制服の肩が張っていて、その下の厚みが隠しきれていない。眼鏡の奥の目が静かにこちらを見ていた。
男子寮長のオクタスだった。
オクタスはセティーシェに向き直り、深く頭を下げた。
「セティーシェさん。こちらでよく言い聞かせておく。ここは引いてもらえないだろうか」
セティーシェの扇子の音が止まった。
少しの間があってから、彼女は小さく息を吐いた。骨を這っていた光が消えていく。
「……オクタス様がそう仰るなら」
「感謝する」
オクタスは次にチェリに向き直って、もう一度頭を下げた。
「不快な思いをさせた。身内として詫びる」
「あ、いえ」
「以後、こういうことがないようにする」
言い終わると、オクタスはムシュクルの方へ向き直った。
そして、片手を伸ばした。
ムシュクルの襟の後ろを掴む。次の瞬間、ムシュクルの足が床から離れた。
「うわっ」
ムシュクルの爪先が宙で泳いだ。オクタスは片腕だけで彼を吊り上げたまま、平然と歩き出す。
「兄上!? なんで!?」
ムシュクルが叫んだ。
「黙っていろ」
「せめて、歩くから下ろしてくれ!」
オクタスはそのままムシュクルを引きずるようにして、人垣の向こうへ消えていった。学生たちが自然と道を空けている。誰もが見ていたが、誰も止めなかった。
* * *
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に声を出したのはガンマだった。
「……すげえ」
目が輝いていた。
「片手だぞ、今の。片手で人一人持ち上げた」
「そこ?」
ナハヤが呆れた声を出した。
「あの体格、絶対鍛えてる。何やってる人なんだ」
「やめてよ。あいつの身内だろ、ろくなもんじゃない」
ナハヤはガンマから視線を外して、ムシュクルが消えていった方を見た。
それから、ぽつりと言った。
「何あいつ。馬鹿なの」
「そう、馬鹿ですわ」
セティーシェが即座に返した。そして扇子を軽く開いて、口元に当てた。
「あの方の名誉のために申し上げておくと、悪意はないのです。悪意は」
「余計に悪くない?」
チェリが小さく言った。
「ええ。余計に悪いですわね」
セティーシェが同意した。
「大体、結婚の申し込みというのは家同士の話でしょう」
ナハヤが指を折るように言い始めた。
「まず双方の親が話をして、条件を詰めて、それから本人たちが顔を合わせる。順番が決まってる。いきなり本人に言うなんて礼儀がなってない」
「そう。北でもどこでも同じですわ」
セティーシェが頷いて、続けた。
「私とハリュナル様も、まず両家で話がついてから顔合わせをしましたもの」
「じゃあ、あれは……」
「順番も何も、全部飛ばしてますわね」
セティーシェが扇子を閉じた。
「あの調子ですと、ご自分の家にも通していないと思います。南の領主様がお聞きになったら卒倒なさるのでは」
「南も大変だな」
ガンマが他人事のように言った。
チェリはムシュクルが消えていった方をまだ見ていた。吊り上げられながら叫んでいた声が耳に残っている。
「セティ姉様。あの人、オクタス様のこと兄上って呼んでいたけど。男子寮長ってあの人のお兄さんなの?」
「いいえ。従兄です」
セティーシェは首を振った。
「オクタス様は南のご出身で、ムシュクルさんとは従兄弟同士なのです。ただ、ご本人が幼い頃から慕っておられるので、兄上と」
「慕ってるんだ」
「ええ。あの方が唯一言うことを聞く相手ですわ」
「確かに強そうだったな!」
「力で従わせてるんじゃないと思うけど……」
ガンマの素直な感想に、ナハヤは突っ込みを入れる。
チェリは、吊り上げられながら「兄上!」と叫んでいたムシュクルの顔を思い出した。あれは確かに親しい相手への呼びかけ方だった。
「でもさ」
ガンマがふと真顔になった。
「今の場にナル兄がいたら、あんな穏便に済んでないよな」
全員の動きが止まった。
チェリの兄のハリュナルは院生だ。院生は研究が優先で、交流会に出る義務はない。ハリュナルは出たがっていたが研究室に用があって諦めていた。
「もし、いたとしたら……」
ナハヤが眉をひそめて呟く。
「氷漬け」
「間違いなく氷漬け」
ガンマとチェリの答えが揃った。
「寮監に怒られるのは私ですわね」
セティーシェが真顔で言った。
「セティ姉様、止められないの?」
「無理です」
即答だった。
「あの方、チェリさんのこととなると人の話を聞きませんもの」
四人が同時に頷いた。
一人だけ、頷いていない者がいた。
キャエラだった。
彼女は床に落ちた杯をようやく拾い上げて、両手で持ったまま、四人の会話を呆然と聞いていた。
「……あの」
「うん?」
「とても物騒な言葉が聞こえたんですけど……」
「……」
チェリたちは気まずそうな顔になった。
「私のお兄様が、ちょっと、あの、過保護というか……」
チェリが言葉を選びながら答える。
「そうなんですか……」
「キャエラだったら大丈夫だろ。氷漬けにはなんないよ」
ガンマがあっさり言った。
「母様が言うのとは違う意味で、要注意のような……」
キャエラは誰にも聞こえない小さな声で呟いた。
* * *
その時、また人の間から一人、チェリたちのほうへ歩いてくる者がいた。
女子学生だった。長い髪を左右に分けて、高い位置で結っている。歩き方に迷いがない。真っ直ぐ向かってくる。
寮長の挨拶の時、壇の上でセティーシェの視線を受けて顔を強張らせていた二人のうちの、もう片方だった。
彼女はチェリの前で足を止めた。
背はチェリとそう変わらなかった。二年生にしては小柄なほうだろう。それでも真正面から見据えてくる目には力がある。眉が強い。
そして、はっきりと言った。
「チェリーチェ・バイフート!」
今日二度目の名指しだった。チェリは思わず身構えた。




