87 寮生の交流 威圧と波乱
顔合わせの挨拶が終わり、黒寮の共用棟の食堂は自由な交流の時間に移っていた。扇形に並べられていた椅子の間を寮生が行き交い、あちこちで名乗り合う声が上がっている。壁際の長卓に用意された水差しの周りにも人が集まっていた。
その騒がしさの中で、チェリはキャエラと向かい合っていた。
チェリはキャエラの顔を見上げていた。試験の日と同じ顔だった。あの時と同じ気安さで話しかけてくる。城にいた頃から、自分に対してこういう距離の取り方をする相手は少なかった。
「同じ寮だとは思わなかった」
「私もよ。まさか黒に入れられるとは思わなかったもの」
キャエラは肩をすくめた。
「うちは下級貴族だから、赤か白のつもりでいたのに」
「希望、出さなかったの」
「出さなくても勝手にどちらかになると思ってたの」
あまりに堂々と言うので、チェリは思わず吹き出した。
「なんで笑うの」
「ううん、いいなと思って」
本当にそう思った。
「学年は同じよね。じゃあ講義も重なるかも」
キャエラが指を折りながら言う。
チェリは頷いた。同じ寮で同じ学年。それなら顔を合わせる機会はいくらでもある。
城を出てからずっと、周りは知らない建物と知らない顔ばかりだった。その中に一つだけ、知っている顔が混じった。
* * *
後ろから足音が二つ近づいてきた。
「チェリ」
振り返ると、ナハヤとガンマが並んで立っていた。ガンマは杯を二つ持っていて、片方をチェリに差し出してくる。
「知り合いか?」
「うん。試験の時に会った子」
チェリはキャエラに向き直った。
「こっちが従兄のナハヤ。こっちも従兄のガンマ。二人とも同じ黒寮なの」
「ナハヤールです。ナハヤと呼んでください」
ナハヤが先に頭を下げた。所作が静かで丁寧だった。
「ディガンマ。ガンマでいいよ」
ガンマは杯を持ったまま軽く手を上げた。
「キャエラ・シェーカーです。よろしく」
キャエラも名乗り返した。それから小さく首を傾げる。
「あなたたちも試験の日にいたの?」
「同じ部屋にいたよ。席が離れていたけど」
ナハヤが答えた。
「みんな席がバラバラだったしね」
「そうだったの。全然気づかなかったわ」
キャエラは納得した顔で頷いた。
ガンマが杯の水を一口飲んで、遠慮なくキャエラの顔を眺めた。
「お前、チェリと同い年か?」
「まさか。もうすぐ十六よ」
「そうか。じゃあ普通だな」
「普通って何よ」
「普通は十五か十六で入るもんだろ。俺たちとは違って」
ガンマがあっさり言うと、キャエラは目を丸くしてチェリを見た。
「あなた、いくつなの」
「今は十二、今年十三になるけど」
「……十二」
キャエラは口を半分開けたまま止まった。
「三つ下……」
「珍しいことではあるけど、試験に合格すれば入学できるからね」
ナハヤが補足した。
「僕は十三。ガンマはチェリと同い年」
キャエラはしばらく三人の顔を順に見て、それから大きく息を吐いた。
「なるほど。うちの大伯父様が青くなるわけだわ」
「何の話?」
「こっちの話」
キャエラは手を振って誤魔化した。
* * *
人の間を抜けて、こちらへ真っ直ぐ歩いてくる人影があった。
黒髪の上級生。壇の上で挨拶をしたばかりの女子寮長だった。近づくにつれて、周りの学生が自然と道を空けていく。手には閉じた扇子を持っていた。
キャエラの背筋が伸びた。
「チェリさん」
セティーシェは三人の前で足を止めると、切れ長の目を柔らかく細めた。壇上とは別人のような顔だった。
「セティ姉様」
チェリが答えた。
それを聞いたキャエラの動きが止まった。
「……姉様?」
声が半分裏返っている。チェリを見て、セティーシェを見て、またチェリを見た。
セティーシェが可笑しそうに口元を押さえた。
「ああ、驚かせてしまったかしら。ごめんなさいね」
「セティ姉様は、私の兄の婚約者なの」
院にいる上の兄のハリュナルがいることをチェリが説明する。
「セティーシェと申します。北の領地の出です」
セティーシェが後を続けた。扇子の先を軽く胸元に添えている。
「そのハリュナル様と婚約しております。ですからチェリさんとは、そのうち姉妹になります」
「義理の姉妹でしょ」
ナハヤがすかさず突っ込みを入れた。
「本当の妹のように思っていますわ」
セティーシェが平然と言い切った。ナハヤが横で口の端をわずかに動かした。
キャエラは慌てて姿勢を正して頭を下げた。
「キャエラ・シェーカーと申します。中央領の出です。あの、今年入学しました」
「知っています。名簿を見ましたから」
セティーシェはにこりと笑った。
「あなた、チェリさんとお知り合いなのね」
「試験の日に少しだけ……あの、その節はご無礼を」
「無礼って何のこと」
チェリが真顔で聞き返した。
「席を間違えて座ってしまって」
「それだけでしょう」
「そうなんだけど、うちの家族が」
キャエラが言葉を濁した。セティーシェは事情を察したらしく、ふっと肩の力を抜くように笑った。
「ご家族が心配なさったのね。よくあることよ」
「はい……」
「でも大丈夫。うちのチェリさんはそういうことを気にする人ではないから」
セティーシェはキャエラの前に一歩踏み出した。
「うちのじゃないだろ、うちのじゃ」
ガンマが突っ込んだが、セティーシェには聞こえている様子がない。
「キャエラさん」
「はい」
「仲良くしましょう」
言葉自体は柔らかい。ただ、切れ長の目が真正面から向けられていて、逃げ場がなかった。
「はい、あの、はい」
キャエラは首を縦に振った。振りながら、少しだけ後ろに下がろうとして、椅子の脚に踵をぶつけていた。
「同じ学年のお友達がいるのは良いことだもの。チェリさんは学年で一番年下だし、私は四年で学年が違うから、日中はあまり一緒にいられないでしょう。だからあなたがいてくださると安心だわ」
「あ、はい。……はい」
キャエラの返事がだんだん短くなっていく。
チェリはその様子を見て、少し気の毒になった。
「セティ姉様、圧が強い」
「あら、そうかしら……壇の上ほどは出していないつもりなのだけれど」
セティーシェは扇子の先を口元に当てた。自覚はなかったらしい。
「気をつけるわ。ごめんなさいね、キャエラさん」
「い、いえ。滅相もございません」
キャエラの言葉遣いが完全に固まっていた。
ガンマが横で小さく笑って、ナハヤに肘で小突かれていた。
* * *
その時、人垣の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
背の高い男子学生だった。整った顔立ちをしている。姿勢はどこか崩れていて、歩き方に妙な余裕がある。壇の上でセティーシェの視線を受けて顔を伏せていた、あの二人のうちの片方だった。
男は真っ直ぐこちらへ向かってきた。
セティーシェの目が細くなった。キャエラは一歩下がった。ナハヤの表情が消えた。ガンマは杯を持ったまま男を見ている。
男はその四人の様子を、ほとんど見ていなかった。
視線はチェリだけに向いている。
彼はチェリの正面で足を止め、片手を胸に当てて、大袈裟なくらい丁寧に頭を下げた。それから顔を上げて、自分でも上手くいったと思っているらしい笑みを作った。
「はじめまして。ようやくお会いできましたね――チェリーチェ・バイフート」
南領主の孫息子、ムシュクル・ジューチェだった。




