86 新入生 黒寮での交流会
私はキャエラ・シェーカー。もうすぐ十六歳。中央領の生まれで家は下級貴族。ここ何代かでようやく名を知られるようになってきた、上り調子の家の娘だ。
中央領は国の真ん中にある王の直轄地で東西南北の四つの領地に囲まれている。その首都に大学がある。国に一つしかない大学だ。だから学生はどこからでも来る。西から北から南から東から。貴族が多いけれど、平民もいる。
入学した学生は必ずどこかの寮に入ることになっている。実家が首都にあっても関係ない。私のように中央領の生まれで家から通えるような者でも例外はなく、荷物をまとめて寮に入る。
寮は四つある。学生はどれも色で呼ぶ。黒、白、赤、青。書類の上では北寮、西寮、南寮、東寮と書かれているけれど、そんな呼び方をするのは事務の人くらいのものだ。
黒は領主の子弟が優先して入る寮。白と赤は成績で名の通った者が集まる寮。青は平民ばかりの寮。
私の入学と入れ違いで大学を卒業した姉様にはそう聞いていた。
それで、私が入れられたのは黒だった。
普段なら、下級貴族の娘が振り分けられるような寮ではないという。
「どうしてあなたはそう考えなしなの!」
実家の応接間で母様に何度言われたか分からない。細長い窓から差し込む午後の光の中で、母様は扇を握りしめて開いたり閉じたりしていた。
「どうして赤か白に入寮希望を出しておかなかったのよ!」
だって姉様がどうせ赤か白のどちらかになるでしょと言っていたから。わざわざ書かなくてもいいかと思ってた、と答えたら母様の眉間の皺が三段くらい深くなった。
* * *
どの寮も男子棟と女子棟に分かれていて、その間に共用棟が建っている。食堂と談話室が入っていて男女どちらも使える。つまり寮生が顔を合わせる場所はここしかない。
その食堂が今朝はいつもと違う顔をしていた。
卓は壁際に寄せられ椅子だけが引き出されて、正面の壇に向かって扇の形に並べられている。今日は寮全体の顔合わせだ。上は最上学年から下は私たち新入生まで、黒寮の全員がこの部屋に集まることになっている。
私は扇の端、後ろから二列目に腰を下ろした。目立たない位置がいい。人の顔ぶれが揃うまでぼんやり眺めていられる場所がいい。
椅子が少しずつ埋まっていく。挨拶を交わす声、荷物を椅子の下に押し込む音、床を擦る硬い音。上級生ほど前に固まって遠慮なく笑い合っている。後ろにいるのは大体が私と同じ新入生だ。
少し首を巡らせて顔ぶれを確かめていく。焦茶の制服はみんな同じ。飾りが一切ないので余計に同じに見える。
扇の中ほどで視線が止まった。
三人並んだ席の一つに明らかに小さい姿がある。両脇の二人より頭が一つ低い。制服の肩が少し余っているように見えた。
――あ。
大学入学試験の会場にいた子だ。
席を間違えて座ってしまった私に「気にしないで」と笑ってくれた子。名前だけ聞いた。チェリ、と。
まさか同じ寮だとは思わなかった。それも黒に。
彼女を見ていると、母様が繰り返していた言葉をふと思い出した。
「どうしましょう不興を買ったかもしれないわ」
あの試験の後、何気なく食卓で話しただけだった。会場に随分年下の女の子がいてね、その席に私が座っちゃって、と。
その瞬間に食卓の空気が凍った。母様は手を止め、父様は眉を寄せ、姉様は呆れた顔でこちらを見、大伯父様が「小さい、とはどれくらいだ」と身を乗り出してきた。特徴を答えていくうちに大人たちの顔が白くなっていった。西の英雄の孫娘だ、受験するという噂は聞いていた、ハリューク殿は孫娘を溺愛しているのだ、うちとは格が違う一族だ、と。
その夜から家の中がおかしくなった。
「絶対に、絶対に不興を買ってはいけません」
寮が黒だと知らせが来た日、母様は倒れそうになっていた。慰めても意味はない。慰めるとむしろ不安が膨らんで手が付けられなくなる。三日もすれば私は黙って聞き流すことを覚えた。
父様はあの翌日から各所を走り回っているようだった。娘の……いや、一族の不始末を何とか取り繕おうとしているのは分かる。
でも無駄に終わると思う。いくらなんでも席を間違えたくらいでうちの家が傾くなんてことはあり得ない。
「キャエラ、あんまり父様と母様を心配させないでよね」
「姉様まで……そんなに気にすることないと思うんだけど」
「そうね、西の領主の孫なら私と同じ学年にもいたけど……別に権力を振りかざすような男じゃなかったし」
むしろ同級生の世話をよく焼いていたらしい。青寮の平民の学生の相談に乗っているところを何度も見かけたという。
あの感じだと、西の領主の一族は身分の上下で物事を判断することはないように思う、と姉様は言った。そのことを母様に何度も言ったのだが、心配は一向に収まらないらしい。
「さっさと家を出たほうがいいんじゃない? あなたの顔を見るたびに母様の機嫌が悪くなるし。あなただって嫌でしょ?家の空気が悪くなるのは」
姉様は私の心配をしているようで自分の都合を優先しているだけではないか。そう思ったが確かに一理あった。
それからすぐに荷物をまとめた。寮に入れる初日の朝一番で家を出た。門を出た時の解放感は当分忘れないと思う。
扇の中の小さな姿は隣の男の子と何か話している。両脇は二人とも男子で、片方は静かそうな顔立ち、もう片方は目つきの引き締まった子。三人とも幼さが残っている。新入生だろう。
じっと見ているのは失礼だ。私は視線を戻した。
* * *
壇の脇の扉が開いて大人が二人と上級生が二人、四人が並んで入ってきた。
最初に壇に立ったのは女の人だった。
背が高い。髪をきつく結い上げて深い色の外套を羽織り、腰に細い剣を帯びている。目尻がわずかに切れ上がっていて、それだけでこちらの背筋が伸びた。
「女子寮監、スクティール・ワイ・ファンス」
名乗りが短い。声は低くはないがよく通った。
「黒寮女子棟の秩序は私が預かる。初めに一つだけ言っておく」
スクティール様は扇の端から端までを一度なぞるように見渡した。
「ここにいる間、諸君は皆が学生だ。それ以上でもそれ以下でもない。実家の家格を持ち込むな。身分をかさに着ての横暴は私が一切許さない」
空気が張り詰めた。
「もう一つ。揉め事は起きるものだ。起きたら私のところへ持ってこい。陰でこそこそ片付けようとするな。それが一番私の嫌うやり方だ」
誰も咳一つしなかった。
……母様がこの人の話を聞いていたら泣いて喜びそうだ。今すぐ寮監に相談して始末をつけていただきなさい、と言うところまで目に浮かぶ。
スクティール様が下がると入れ替わりに男の人が壇の前に立った。こちらも背が高いけれど印象がまるで違う。見るからに力が強そうというわけではない。むしろ細いくらいなのに、腕を組んで立っているだけで妙に頼もしく見えた。
「男子寮監、ウルス・ワイ・ファンス」
どっしりした声だった。
「規律を守れ。勉学に励め。以上」
……以上。
それで下がってしまった。前の人との落差に、周りの何人かがそっと肩の力を抜いたのが分かった。
* * *
次に立ったのは上級生の女子だった。
長い黒髪が艶やかで切れ長の目をしている。整いすぎていて近寄りがたい種類の美人だ。襟元まできっちり留めているのが余計に隙のなさを際立たせていた。
「女子寮長のセティーシェです。この一年、皆さんの寮生活の代表を務めます」
声に張りがある。丁寧だけれど柔らかいだけではない。
「一言だけ申し上げます」
視線がゆっくりと会場を巡った。
「この寮は何かあるとすぐ格式だけだと言われます。実力ではなく身分で入った者ばかりだと。他寮からも大学の外からもそう見られています。悔しい話です」
誰かが姿勢を正す気配がした。
「ですから今年は問題を起こしてくれるな、とお願いしておきます。特に――」
セティーシェ様の視線が会場のある一角で止まった。
私もつられてそちらを見た。
私より少し前の列に座っている二人。私たちより上の学年だろう。片方は男子で顔立ちは整っているけれど姿勢がどことなく崩れていて、だらしない印象がある。今まさに視線を受けて気まずそうに顔を伏せたところだった。もう一人は女子で長い髪を左右に分けて高い位置で結っている。こちらも頬を強張らせて前を睨むようにしている。
……ああ、この人たちのことか。
新入りの私にも分かるくらい二人ともあからさまに動揺していた。
特に男の方。軽薄そうだなあ、と他人事のように思う。ああいうのには近寄らないでおこう。母様が知ったらまた騒ぎ出す。
「言うことを聞かない方には私から直接申し上げます。それでも聞かない方には寮監のお手を煩わせることになりますので」
セティーシェ様の視線が壁際に一瞬だけ向いた。腕を組んで立っているスクティール様に。
それだけで十分な脅しになっていた。
最後に立ったのは大柄な男の上級生だった。制服越しにも肩幅と腕の太さがはっきり分かる。眼鏡をかけていなければ武官と間違えそうな体つきだ。
「男子寮長のオクタスです。よろしくお願いします」
挨拶が短い。
「先ほど寮長のセティーシェさんが仰った通りです。私からも同じお願いを申し上げます。以上」
一礼して下がっていった。
……この寮、力関係は女子のほうが上なのでは。
どう見ても腕っぷしはオクタス様のほうが上だ。それなのに隣に立っているセティーシェ様のほうが場を握っているように見える。
* * *
スクティール様がもう一度壇の前に立った。
「以上で挨拶は終わりだ。ここからは自由にしろ。互いに顔と名前を覚えておけ。この一年、同じ屋根の下で暮らす相手だ」
途端に椅子が鳴って声が広がった。皆が立ち上がって思い思いに動き出す。壁際の長卓には水差しと杯が並べられていた。
私も立ち上がって、それから扇の中ほどにもう一度目を向けた。
目が合った。
あの子が私を見て目を丸くして、それから口の端で小さく笑った。
私も自然に笑ってしまった。
人の間を縫って二人でゆっくり近づいていく。
「試験の日以来ね」
先に声をかけたのはあの子のほうだった。
「合格おめでとう」
「そっちこそ」
二人で顔を見合わせて少し笑った。周りは相変わらず騒がしいのに、そこだけ少し静かだった。




