85 再びの旅路 大学へ
旅の一日目、宿に着いてチェリが最初に思ったのは、こんなに楽だったのかということだった。
前に来た時は蓋付きの籠にシルヴァーンを押し込んで、鳴かないよう祈りながら宿の玄関を通った。愛猫だと嘘をつき、部屋の窓を閉め切り、廊下に足音がするたびに息を詰めた。
今回は、そのまま連れて入った。
「まあまあ、これが」
宿の主人が両手を組んで竜を見下ろした。
「話には聞いておりましたが。本物は違いますなあ」
シルヴァーンは主人の前で首を伸ばし、匂いを嗅いでから興味を失った。主人はそれだけで顔をほころばせている。
「果物がお好きだと聞いておりますので」
主人が合図をすると厨房から果物が運ばれてきた。頼んでもいないのに、皿に山盛りだった。
「うちの者が、一目見たいと申しておりまして。廊下からで構いませんので」
「どうぞ」
チェリが答えると、主人は嬉しそうに下がっていった。
「歓迎されているというのは良いものですね」
ディラが荷を解きながら言った。
「前は大変でしたから。隠さないといけないので窓を開けるのも一苦労で」
「あの時、ディラが火魔法を放ったことにしたんだったね」
「竜が火を吹いたことにはできませんからね」
ディラは笑って荷を続けた。
「今回は暴れないでね。何かあってももっと穏便にね」
チェリがシルヴァーンに話しかけたが、当の本人はきゅい?と鳴いて首をかしげるだけだった。
* * *
旅の半ばを過ぎた街でのことだった。
馬車を停めて休みを取っている間に、人が集まってきた。西領地では、竜を連れた姫様が中央領へ向かうという話が広まっている。噂の姫様の竜が通ると聞けば、街道沿いの街では人が集まる。
チェリは馬車の脇に立って、集まった者たちに会釈をしていた。シルヴァーンは足元で欠伸をしている。
その時、タウラが位置を変えた。
半歩前に出て、チェリとシルヴァーンの間に立つ形になる。何も言わない。ただ視線が一点に固定されていた。
チェリもそちらを見た。
人垣から離れたところに、外套の男が一人立っていた。近づいてこようとはしない。距離を保ったまま、両手を胸の前で合わせている。
口が動いていた。
声は届かない。ただ、その目がシルヴァーンだけを見ている。集まった者たちは声を上げ、手を振り、子供を抱き上げているのに、その男だけが静かに何かを唱えていた。
チェリは足元に手を伸ばして、シルヴァーンを馬車の陰へ引き寄せた。
教団は壊滅したと聞いた。それでも教えを信じる者は残ると、あの手紙には書いてあった。
「チェリ様」
チェリの隣にディラが来ていた。目が男のほうへ向いている。
ディラは教団のことを詳しく知らされてはいない。それでも危ないと分かるらしかった。できる限りチェリの近くに立って警戒をしている。
「戻りましょう」
タウラが低く言った。
チェリは頷いて馬車に乗った。ディラが続き、タウラが最後に扉を閉める。
窓の外を見ると、男はまだ同じ場所に立っていた。近づいてこない。何もしない。ただ手を合わせている。
馬車が動き出しても、その姿勢は変わらなかった。
* * *
領境を越えたのは、その翌々日だった。
道の作りが変わり、行き交う馬車が増える。中央領に入ったのだと、聞かなくても分かった。
その日の宿でも、シルヴァーンは隠さずに済んだ。話は通っている。西領地の領主から正式に届けが出ていて、竜の滞在を許可する宿だけを選んである。
ただ、迎え方が違った。
「お待ちしておりました」
宿の主人は深く頭を下げた。丁寧だった。丁寧すぎるほどだった。
「そちらの……ええ、竜は、お部屋にご一緒でよろしいでしょうか」
「はい」
「かしこまりました」
主人はシルヴァーンを見ない。目を合わせないようにして、少し離れたところから話している。廊下ですれ違った女中は、竜を見て足を止め、壁際に寄って通り過ぎるのを待っていた。
果物は出てこなかった。頼めば出るのだろうが、勝手に運ばれてくることはない。
「西とは違いますね」
ディラが荷を置いて言った。
「そうだね」
西領地では、竜は春を運ぶものだった。渡りを見上げて祭をする土地で、姫様の竜は縁起物だった。
ここではただの竜だ。人を襲うこともある生き物で、それが宿の部屋に入る。怖がるほうが当たり前なのかもしれない。
シルヴァーンは何も気にせず、窓辺で丸くなっていた。
チェリはその背を撫でながら、あと二日で首都に着くのだと考えていた。
* * *
十日目の昼過ぎ、馬車は中央領の首都に入った。
城壁の門をくぐると、通りの人の多さが西とは違う。荷車が行き交い、店先から声が飛び、窓の外を絶え間なく人影が過ぎていく。前に来た時と同じ景色だった。
違うのは、この街に暮らすことになるという点だけだ。
「ここに住むことになるんだね」
チェリが呟くと、ナハヤが窓の外を見たまま頷いた。
「四年……院に行くならそれ以上」
「どっちにしろ長いな」
ガンマが言った。
「俺たちが今まで生きてきた三分の一以上だ」
その計算をされると急に長く感じる。チェリは黙って窓の外を見た。
* * *
大学の正門は、前に来た時にも通っている。
あの時は試験を受けに来ただけだった。門をくぐって案内された建物へ行き、試験を受けてまた出てきた。それ以外の場所には目もくれなかった。
今日は違う。
門の内側は街のようになっていた。石畳の道が幾筋にも分かれ、その両側に建物が並んでいる。学生が歩き、荷車が通り、庭木の下で誰かが本を広げていた。人の多さは首都の通りと変わらない。
馬車は正面の大通りには入らず、外周に沿った道を東へ回った。
すぐに赤いレンガの壁が見えた。
赤の南寮だ。門から一番近い場所にある。サジットが四年を過ごし、副寮長を務めた寮だった。
名前を知っているだけの場所が、目の前で色を持っている。前に来た時は、どれも同じ建物にしか見えなかった。
道が緩やかに曲がっていく。
「あれか」
ガンマが身を乗り出した。
左手の奥に青い壁が覗いている。青練土の建物だった。西領地の倉庫や塀で見慣れた青い色が、こんなところに並んでいる。
「ディラの弟の寮だね」
「ここだけ西領地みたいですね」
ディラが窓の外を見た。声が少しだけ弾んでいる。
馬車がさらに進むと、道の先に黒い石の建物が現れた。
他のどれよりも大きい。石が厚く、窓が高い位置にある。近づくにつれて壁が視界を埋めていった。
黒の北寮。
建物の前で馬車が停まった。
ディラが先に降りて、チェリに手を貸す。シルヴァーンが座席から降りて地面に足をつけ、首を伸ばして辺りの匂いを嗅いだ。
入口の前に人が集まっている。新しく入る学生と、その使用人たちだろう。荷を抱えた者、親らしき人と話している者。皆がこちらを見た。竜を連れた一行は他にいない。
チェリは背筋を伸ばした。
その人垣の手前に、二人立っていた。
背の高いほうが大きく手を振っている。もう一人はその隣で、少し困った顔をしていた。
「チェリ!」
声が建物の壁に反響した。
「ナル兄様!ナツ兄様!」
チェリは手を振り返した。
シルヴァーンがチェリの脇を抜けて、先に歩き出した。呼び止めようとして、やめた。
行けばいい。
ここがこれから暮らす場所だ。
これで第二章 大学受験編は終わりです。
次話からは大学入学編です。




