83 領主の演説 次の春の姫
舞台の中央に出てきたハリュークが口を開くと、広場の音が消えた。
演説はいつもの順序で進んだ。この一年の出来事、街道の普請、隣領との取り決め。農作物の出来は例年並みで、備蓄も足りていること。
声を張り上げるわけではない。淡々と数を挙げ、事実だけを並べていく。それでも広場の端まで届くのは、誰もが黙って聞いているからだった。
首都に予備校を開くという話も出た。平民の子が大学を目指すための場で、講師には家庭教師を長く務めた者を招いたという。広場のあちこちで声が上がった。チェリは思わずハリュークのほうを見た。その講師が誰なのかを知っている。
労いの言葉も短い。よくやった、次の年も頼む。それだけだ。
「もう一つ、伝えることがある」
チェリは顔を上げた。
いつもと違う。毎年同じ言葉で締めくくられる演説に、聞いたことのない一文が足された。
「春の姫のことだ」
広場がざわめいた。
チェリの膝の上で、組んでいた手に力が入った。何も聞いていない。今朝も支度の間、誰からも何も言われなかった。
「西領地の古い言い伝えに、こうある」
ハリュークは広場を見渡した。
「雪解け水の妖精は七年のあいだ地に留まり、その後に水へと還った。人の姿を借りるのは、そのあいだだけだと」
どこかで、ああ、と声が上がった。年寄りの声だった。
「今年で七年になる」
チェリは息を止めていた。
六歳の年から数えて七年。指を折るまでもない。合っている。
「よって、春の姫の役目は今年をもって終いとする。来年からは新しい姫を選ぶ」
広場が揺れた。ざわめきが波のように広がっていく。驚きの声と、納得したような声が混ざっている。
「なお」
ハリュークが声をわずかに強めた。
「私の孫娘は、この春から中央領の大学へ行く。四年、この地を離れる」
声が変わった。
拍手が起きた。誰かが名を呼び、それが広がっていく。姫様、姫様、と繰り返される。すでに知られていたことだった。合格の狼煙が上がった日、城には人が押し寄せた。それでも改めて領主の口から告げられると、広場の熱が変わる。
「学びに行くのだ。竜も連れていく」
歓声が一段跳ね上がった。
チェリは笑うことも忘れて舞台を見ていた。
言い伝えのことは知っている。妖精が水に還るという話は聞いたことがあった。だが七年だったかどうか、思い出せない。数を聞いた覚えがない。
それでも民は納得している。年寄りが頷き、若い者が手を叩いている。誰も疑っていない。
足元でシルヴァーンが顔を上げた。歓声の中で耳を立てている。
ハリュークが席へ戻っていく。すれ違いざま、こちらを見た。表情はいつもと変わらない。
* * *
その夜、広場の空に竜が舞い上がった。
城の使用人たちが作り続けた張り子が、綱を解かれて夜空へ昇っていく。張り子の紙には魔力を帯びやすい加工が施してあり、マナの風を受けると淡く光る。
白銀だった。
塗られた色が光を含んで、闇の中に浮かび上がる。首の伸び方も、背から尾へ抜ける線も、翼の畳み方まで。空の高いところで光るそれが何を模したものか、見上げれば誰にでも分かった。
「姫様の竜だ」
「そっくりじゃないか」
「シルヴァーンだ!」
声が上がる。西領地の各地から届いた大小の張り子も次々と昇っていき、子供たちが切り紙の竜を放った。空が竜で埋まっていく。
その中でも一番大きく、一番高いところにいるのは白銀だった。
チェリは椅子から立ち上がって空を見上げていた。
足元にいる本物は、空の偽物にはまるで関心を示さない。ただ広場のざわめきのほうを見ている。
来年、この空を自分は見ない。四年は見ない。その頃には新しい姫が高座に座っていて、白銀の張り子は上がらないかもしれない。
嫌だと言い続けてきた役だった。それが今日で終わる。
チェリは空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
* * *
張り子が空の高みへ遠ざかり、人々が屋台のほうへ散り始めた頃、チェリは舞台の裏でナハヤとガンマを見つけた。
髪飾りはもう外してある。ドレスの裾を持ち上げて、石畳の段に腰を下ろした。シルヴァーンが足元に丸くなる。
「終わったな」
ガンマが串を持っていた。どこかで買ってきたらしい。
「終わったね」
「もうやらなくていいんだろ。雪解け水の妖精」
「言わないでって言ってるでしょ」
ガンマが笑って串をかじった。
ナハヤは段に腰を下ろさず、立ったまま空を見上げている。張り子はもう竜の形には見えないほどの高さまで飛んでいた。
「ねえ、さっきの言い伝えだけど」
チェリが呼ぶと、ナハヤがこちらを向いた。
「僕もそれを考えてた」
「知ってた?」
「妖精が水に還る話は知ってる。子供の頃に読んだ。冬の終わりに役目を果たして、水になって流れていくっていう」
ナハヤは指を折るような仕草をして、途中でやめた。
「でも、年数は書いてなかったと思う」
「やっぱり、こじつけだよね」
「まあ」
ガンマが串にかじりついて、口を動かしながら言った。
「お前が困らないようにしたんだろ」
「……そうかもね」
その通りなのだろうと思う。チェリがしばらくいなくなることを、民は既に知っていた。では春の姫はどうなるのかと誰もが思っていたはずだ。そこへ言い伝えを置けば誰も困らない。文句も出ない。
整えてある。いつもそうだ。
チェリは足元のシルヴァーンを撫でた。歓声がまだ遠くで続いている。
「帰ろう」
立ち上がると、ドレスの裾が石畳を擦った。
「ディラに怒られる。荷の仕分けが残ってるって」
「まだあるのか」
「……あるのよ」
三人は広場を抜けて城への道を歩いた。
空はまだ竜の張り子の光が散らばっている。大小の仄かな光が、マナの風に乗って東へ流れていく。
あれは東までは行かない。どこかで紙が破れ、骨が折れて、西領地のどこかの野に落ちる。毎年そうだ。竜の渡りを追うように昇っていって、追いつく前に落ちる。
落ちた張り子を拾った者には良いことがあるという。拾った張り子の木や紙は燃やして灰にし、畑に撒く。そうすると作物がよく実るのだと、子供の頃から聞かされてきた。
あの張り子たちがどこの畑に撒かれることになるのか、まだ誰にも分からない。




