82 竜の渡りと子竜 春祭の開始
春分を越えてマナの風が吹き始めると、城の空気が変わる。
その早朝、チェリは尖塔の最上階にいた。西の空がよく見える小部屋で、風の音だけがよく届く。去年もここで竜の渡りを見た。
違うのは、一人ではないことだった。
「まだ来ないな」
ガンマが窓枠に肘をついている。ナハヤは壁際で本を開いていたが、目は外へ向いていた。床にはシルヴァーンが寝そべって、尾の先だけを動かしている。
「今朝だって、厨房のおばさんが言ってた」
「厨房が一番早いんだよな、そういうの」
しばらくして、西の空に光が動いた。
「来た」
ナハヤが本を閉じた。
竜の群れが空を渡っていく。赤、青、金、翡翠。色とりどりの鱗が朝の光を跳ね返し、うねりながら東へ流れていく。魔力の軌跡が幾筋も空に引かれ、風がその下を吹き抜けていった。
第一陣だ。明日にはもっと多くの竜が連なって飛ぶ。それを見届けてから祭が始まる。
チェリは窓に近づいて空を見上げた。
それから、床のシルヴァーンを見た。
この一年、ずっと考えていたことがある。渡りの季節に同族が空を行くのを見たら、この竜はどうなるのか。竜の本能というものがあるなら、それが呼び起こされたらどうなるのか。
窓を開けたまま群れを見せていいものか、何日も迷った。閉じ込めておけば済む話ではない。シルヴァーンは扉も窓も自分で開けてしまう。
チェリはシルヴァーンの前にしゃがみ込んだ。
シルヴァーンは顎を床につけたまま、片目だけを開けてチェリを見た。それから空へ視線を移し、群れが流れていくのをしばらく眺めて、また目を閉じた。
尾の先が一度だけ動いた。
「……興味ないみたいだね」
ナハヤが言った。
「うん」
「行っちゃうかもって思ってたのか?」
ガンマが振り返った。チェリは頷いた。
「ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないだろ、その顔」
言い当てられて、チェリは口をつぐんだ。目の奥が熱くなりかけたので、慌てて窓のほうを向く。
行かなくてよかった。それだけのことなのに、膝から力が抜けそうだった。
ガンマが何か言いかけて、やめた。ナハヤは本を開き直している。
空では群れがまだ渡っている。長い列がゆっくりと東へ動いていく。その下で、シルヴァーンは床に寝そべって欠伸をした。
あの群れと同じ生き物だとは思えない。けれど同じ生き物なのだ。
「そのうち行きたくなるのかな」
チェリが呟くと、ナハヤが少し考えてから答えた。
「分からないよ。誰も飼ったことがないんだから」
その通りだった。竜が何を食べるのかも誰も知らない。渡りをする理由も分かっていない。分かっていないことばかりの生き物が、今この床で寝ている。
チェリは手を伸ばして、シルヴァーンの背を撫でた。鱗が朝の光を受けて白く光る。空を行く竜たちの色とは、どれとも違っていた。
「明日、祭だな」
ガンマが伸びをした。
「今年もやるんだろ、あれ」
「言わないで」
「雪解け水の妖精」
「言わないでって言ってるでしょう」
ナハヤが笑った。シルヴァーンが起き上がって、ガンマの脛に頭を打ちつけた。
「痛ェ!」
空では最後の竜が東へ消えていくところだった。
* * *
春祭の当日は、いつも通りに進んだ。
中央広場には朝から人が集まり、屋台が並び、幟が風に揺れている。日が落ちる頃には広場が人で埋まった。
舞台の右手に用意された特等席に、チェリは座っていた。白銀のドレスに春の花の髪飾り。髪は巻かれ、化粧を施され、鏡の中の自分は毎年のように別人だった。エルナダは今年も朝から張り切っていた。
去年と違うのは、隣にシルヴァーンがいることだった。
白銀の竜は椅子の脇に座って、広場を眺めている。人の多さにも音にも動じない。去年この広場で舞台に飛び出したことなど覚えていないような顔をしていた。
「姫様だ」
「竜もいるぞ」
「去年より大きくなってるな」
「綺麗……」
人垣から声が上がる。指を差す者、抱き上げられて背伸びする子供。チェリは膝の上で手を組んで、そちらへ顔を向けて笑った。七年もやっていれば、笑い方は身についている。
舞台の左手奥にはハリュークが座っていた。背筋を伸ばし、いつもの顔で広場を見ている。
進行役が舞台に出て、開会を告げた。
去年はここで話が違った。司会者が特別な出し物があると言い出し、劇が始まり、ハリュークは額に手を当てて俯いていた。
今年はそんなことは起こらない。
舞台に現れたのはエルナダだった。深く一礼して、静かに息を吸う。
最初の一声で広場が静まった。
開会の歌は毎年同じ曲だ。冬を送り、春を迎える古い歌で、西領地の者なら誰でも知っている。それでもエルナダが歌うと、知っている歌ではなくなる。高く伸びる声が広場の隅まで届き、屋台の喧騒も収まった。
チェリは隣に目をやった。
シルヴァーンは首を伸ばし、耳の後ろのあたりを立てて、舞台のほうを見ていた。
「シルヴァーン」
声をかけた時にはもう遅かった。
白銀の体が床を蹴って飛び上がった。人垣が一斉に声を上げる。シルヴァーンは舞台の上まで飛んでいき、歌うエルナダの頭上でゆっくりと輪を描き始めた。
エルナダは歌をやめなかった。見上げもしない。声の高さも揺れない。竜が上を回っていることを承知の上で、そのまま最後まで歌い切った。
広場が割れた。
歓声が地面から突き上げるように広がる。手を叩く音、足を踏み鳴らす音、名を呼ぶ声。エルナダが優雅に一礼すると、それがさらに大きくなった。
シルヴァーンは満足したのか、輪を描くのをやめてチェリの足元へ戻ってきた。
「……何やってるの」
チェリが小声で言うと、シルヴァーンは足元で丸くなった。
やがて歓声が収まっていく。進行役が舞台の端に立ち、声を張った。
「それでは皆さま。我らが領主、ハリューク様よりお言葉を賜ります」
人々が静まっていく。屋台の主も手を止めた。毎年この時が来ると、広場の空気が変わる。
ハリュークがゆっくりと席を立ち、舞台の中央まで歩いて、広場を見渡した。




