77 旅立ちの朝 鞄ひとつ
その日の朝、チェリたち三人は城の入口のホールに立っていた。
磨かれた石の床に朝の光が長く伸びている。サジットの足元には鞄がひとつだけ置かれていた。
「それだけ?」
ガンマが目を丸くして鞄を指した。サジットは足元のそれを持ち上げてみせる。
「これだけです。この仕事を始めてから物は増やさないようにしていますので」
一年か二年で次の家へ移る暮らしだと以前に聞いた。荷を増やせばその分だけ動きにくくなる。言われてみれば当たり前の話だが、三年分の暮らしが鞄ひとつに収まってしまうのを目の前で見ると、それは思っていたより短い時間だったような気がしてくる。
「サジット先生」
チェリが前に出て頭を下げた。
「三年間、ありがとうございました」
ナハヤが続いて頭を下げる。ガンマは一拍遅れてから、勢いをつけて腰を折った。今度こそ泣かずに済ませるつもりらしく、顔が妙に力んでいた。
「こちらこそ。よい生徒に恵まれました」
サジットが順に三人を見た。
「ガンマさんは最後まで机に向かうのが苦手でしたが、一度分かったことは決して忘れない方でした。ナハヤさんは誰よりも先に進んでおられましたが、それを人に見せないようにしておられました。……チェリさんは」
言葉が途切れた。サジットが少し考える。
「教える側が試される三年でした」
褒められているのかどうか分からない。ただ、この人が言葉を選んで言っているのは分かった。
「あの、先生」
チェリは足元を見てから顔を上げた。
「私たちは中央に行きますし、先生も次の家庭教師の依頼先に行かれるんですよね。……もう、いつ会えるか分かりません」
言ってしまってから、思ったより自分の声が細かったことに気づいた。ナハヤが黙って隣に立っている。ガンマの顔がまた歪みかけていた。
サジットが目を瞬いた。
「……実は」
三人が顔を上げる。
「私はしばらく西首都におります。次の家庭教師の口は受けませんでした」
ホールが静かになった。
「は?」
ガンマの声が一番早かった。
「首都で大学の予備校を開くことになりまして。平民向けの、ハリューク様が創設するのだと……誘われたんです。専任で講師をやらないかと」
「聞いてない」
「え。どなたかからお聞きになっていると思ってました」
サジットが本気で驚いた顔をしている。誰も聞いていない。誰かが伝えるはずだったものが、そのまま誰の口にも上らなかったらしい。
「じゃあ何だよ、今の別れの挨拶」
ガンマが鞄を指差して声を裏返らせた。
「いえ、城を出るのは本当ですので」
「そうだけど! そうだけどさあ!」
ナハヤが下を向いて肩を震わせている。チェリは頭を下げた姿勢のまま、自分がさっき言った言葉を思い出して耳が熱くなってきた。
「でも」
ナハヤが顔を上げた。
「僕たちは中央に行くから、結局会えないんじゃない?」
その通りだった。首都に残ろうが中央に行こうが、四年は四年だ。せっかく明るくなりかけた場が、また下を向きかける。
サジットは鞄を持ち直して、なんでもないように言った。
「家庭教師をしていれば、来年には北にいるか南にいるか私にも分かりません。文を出そうにも宛先が定まらないのです。それに比べれば、どこにいるか分かっている相手というのは随分と楽なものですよ」
休暇に帰ってくれば、そこに必ずいる。
「捕まえやすいってこと?」
チェリが言うとサジットは片眉を上げた。
「言い方を選んでいただきたいですね」
ガンマが噴き出した。
「でも先生」
チェリは首を傾げた。
「あちこちのお家を渡り歩くのが気楽でいいって、前に言ってませんでした? どうして首都に留まる気になったんですか」
サジットの視線がわずかに泳いだ。
「……それは、ハリューク様に」
「お祖父様に?」
「ハリューク様の力で……大学の試験の問題を、過去の分まで、全て、揃えてくださると」
誰も何も言わなかった。
「私の力ではどうしても手に入らない試験問題もありまして……ハリューク様が、予備校を開くのであれば試験問題はあればあるほど良いでしょうと仰るので、その言葉に甘えまして。いえ、これは別に私情ではなく、過去問がたくさんあったほうが生徒の成績にも良い影響が……」
サジットがだんだん早口になっていく。目の前の三人のことは、もう見えていないようだった。
「……つまり、釣られた」
ガンマが呆れた声を出した。
「人聞きの悪いことを言わないでください。ハリューク様に力量を認められたのは純粋に嬉しかったですし、腰を据えて講師をやるのもいいかな、と。そこで私は必要なものを必要だと申し上げただけで……」
「じゃあ、問題を手に入れてもらえなくても、講師をやってたと?」
ナハヤが静かに言った。サジットの目が泳ぐ。
「……やっ、ていた……と思……います」
「説得力ないよ」
ガンマがため息をついた。
「先生って、そんなに試験問題が好きだったのか」
「好きですが、それが何か」
開き直った。
開き直られてしまえば、もう何を言っても仕方がない。
サジットが鞄を持ち直した。それで話は終わりだと分かった。
「では、行きます」
「はい」
三人が並んで頭を下げた。さっきと同じ動作なのに、今度は誰も力んでいない。
「チェリさん、ナハヤさん、ガンマさん」
サジットが三人の名を順に呼んだ。
「中央でも、分からないことは分からないとちゃんと仰ってください。それができる方は思ったより少ないのです」
それが最後の授業だった。
サジットは扉の外へ出ていく。鞄ひとつの背中が石段を下りて、朝の光の中へ遠ざかっていった。三人は誰も動かないまま、それを見送っていた。
「……行ったな」
ガンマが呟いた。
「また会えるんでしょ」
ナハヤが言う。会える。首都にいるのだから、休暇に戻ってくれば会える。分かっているのに、三人はしばらくそこに立っていた。
教室にはもう誰もいない。




