76 別れの実感 寮の話
書類が揃うとナテュークは束を抱えて立ち上がった。これから領主に目を通してもらうのだという。扉が閉まると議事の間は急に広くなった。
入れ替わりに茶が運ばれてくる。卓の上のものが片付けられて茶器が並ぶと、さっきまでの張り詰めた空気がどこかへ行ってしまった。
チェリは立っているディラとタウラに声をかけた。
「二人も座って」
その言葉に、二人は同時に断ろうとした。
「タウラは授業の後にいつもお茶してたでしょう」
「……あれは、奥様方が仰るので」
「今日は、私が言ってるの」
タウラが少し困った顔をしてから浅く腰かけた。ディラもその隣に続いたが、二人とも背筋は伸びたままでそこだけ場から浮いていた。
シルヴァーンは籠から出て卓の下に潜り込みガンマの足を尾で叩いている。
「あー、疲れた」
ガンマが天井を仰いだ。ナハヤが茶を一口飲んで帳面を閉じる。
「何もしてないから別に疲れてないけど」
「ナハヤが一番役に立ってたじゃない」
チェリが言うとナハヤは少しだけ口の端を上げた。書き溜めたものが人の役に立つ日が来るとは思っていなかったのだろう。
教室で茶を飲んだ日のことを思い出す。おばあさま方が椅子ごと乱入してきて菓子を並べ、授業の終わりがそのまま茶の席になった。サジットは毎度あの隅で困った顔をしていた。
「そういえば」
ガンマが顎をさすりながら口を開いた。
「サジット先生、そろそろ城を出るんだよな」
茶器を持つ手が止まった。
「そうね。次の勤め先が決まったら出るって言ってた」
「もう決まったのかな」
「聞いてない」
教室にはもう試験も宿題もない。それでもサジットは毎朝あの部屋にいるものだと思っていた。三人が呼ばれることはなくなったのに、あの部屋が誰もいないまま閉じられる日が来るという実感だけが湧かない。
「寂しくなりますね」
ディラが茶を注ぎ足しながら言った。
「サジット様がいらしてから、この城もずいぶん変わりましたから」
「変わった?」
「ええ。使用人の間でも試験の話が出るようになりました。うちの子も上の学校へやれないだろうか、と」
ガンマが茶菓子を口に運ぶ手を止めた。チェリも初めて聞く話だった。
「お別れの挨拶はもう済ませたんだけどね」
「あれじゃあ挨拶が済んだ気がしない」
ナハヤが静かに言った。
あの時、ガンマが泣いたせいで挨拶がうやむやになったとは誰も言わない。当のガンマは茶菓子に手を伸ばして知らん顔をしている。
「ちゃんと見送らないと」
チェリが言うと二人が頷いた。卓の下でシルヴァーンが尾を振って、誰かの足をまた叩いた。
それきり話が途切れて、茶の湯気だけが立ちのぼった。
* * *
「寮って、どんなところなの」
チェリが尋ねるとディラが茶器を置いた。
「弟から聞いた話でよろしければ。朝と夕の食事は決まった刻限に食堂で摂ります。遅れると残っておりませんので、皆走るそうです」
「そんなに厳しいの」
「これは東寮での話ですので、貴族方の寮では違うかもしれません」
「東寮と他の寮はどう違うの?」
「弟の寮には使用人の部屋がございません。二人で一部屋、四人で一部屋というところもあるそうです。平民の寮ですから」
チェリはふと、試験会場が貴族と平民で分かれていたことを思い出した。
「それ以外は違いはないようです。洗濯物は寮が集めて洗って返してくれます。ただ、集める場所まで運ぶのも受け取るのも自分でやることになりますね」
ディラの言い方で分かった。それを自分が運ぶつもりでいる。
「私の洗濯物まで運ぶつもり?」
「そのための私です」
言い返す隙がない。先ほど誇りの話をされたばかりだった。
「タウラは?」
「校舎の各階に護衛の控えの部屋があるそうです。講義の間はそこで待つことになります」
タウラの眉が寄った。授業中は教室の扉の前に立っているのが当たり前だったので、扉一枚どころか廊下を隔てることになるのが気に入らないらしい。
「剣を持った者が講義室に何人も立っていては、他の学生が落ち着いて学べませんから、仕方ありませんね。ええ……」
タウラは自分で言って自分で納得しようとしている顔だった。
「いいなー。うちは誰も来ないから全部自分でやるんだよな」
ガンマが茶菓子をつまみながら言った。
「うちは武官の家だから自分の身は自分で守れってさ。ついでに自分の身の回りのことくらい自分でやれって……」
「でもその分自由だってことでしょ」
心底嫌そうにしているガンマに、ナハヤが突っ込みを入れる。
「あっ!そうか、確かに!」
ガンマの顔がぱっと明るくなった。差し引きでプラスになると感じたらしい。
「ナハヤは?」
「母様はじ……ノルムを付けるつもりでいるみたいだけど」
ノルムはナハヤの家に長く仕える家令で、皆はじいやと呼んでいた。寮は男女で分かれているので、男子寮では男性の使用人を連れてくる必要がある。
「あっ、あのじいやか?」
ガンマの問いにナハヤは頷いた。
「でも護衛はいないと思う」
寮の部屋の広さも窓の向きも、そこで自分がどんな一日を過ごすのかも、まだ何ひとつ像を結ばない。分かっているのは焦茶の服を着ることと、食堂に走ることと、シルヴァーンが部屋にいることくらいだ。
卓の下でシルヴァーンが身をよじった。四年をあの部屋で過ごすのだと言われても、この竜には伝わらないだろう。
* * *
夕方、ナテュークが議事の間に戻ってきた。書類の束には領主の印が捺されている。
「明日、早馬を中央へ発たせます」
「返事はいつ来るの」
「早くて半月というところでしょうか。向こうで前例を探すことになるでしょうから、もう少しかかるかもしれません」
半月と聞いてチェリは指を折った。それだけの間、竜の飼育許可が下りるか下りないか、答えの出ない問いを抱えたまま日が過ぎていく。
書類の束が紐で結ばれる。この紙の中にシルヴァーンの丈と重さと、それを世話する二人の名前が入っている。竜が学舎に入ることを許すか許さないか、それを決めるのは一度もこの竜に会ったことのない誰かだった。




