72 相を見る者 子竜の相
ヴァーシャラが城に着いたのは報せを出してからわずか数日後のことだった。南領地へ戻っているものとばかり思っていたが、まだ西領地に滞在していたのだという。
議事の間の扉が開いたとき、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
濃い紺のドレス。白髪をきっちりと結い上げた頭。杖もつかずに背筋を伸ばして歩く姿は半年前とまるで変わらない。老女が一歩進むごとに、チェリたち三人の背が自然と伸びていった。
「すぐに来いと呼びつけるなんて」
ヴァーシャラは部屋を見回し、それから卓の上へ視線を落とした。
「その上、竜を見ろですって?」
声は静かだった。それでいて部屋の隅まで届く。三人は身じろぎもできなかった。
「お久しぶりです、ヴァーシャラ先生」
チェリが一歩前に出て礼をした。仕込まれた通りの角度と間だった。体が勝手に覚えている。
「おかげさまで、入学試験には合格できました」
ガンマとナハヤも慌てて続く。三人とも笑顔がいくらか不自然だった。
「そう。おめでとう。よく頑張りましたね」
あっさりと労われて、三人は固まった。厳しい言葉が飛んでくるものと身構えていたのだ。顔を見合わせるが、どう反応していいのか分からない。
「なんですか、その顔は。私が褒めては悪いとでも?」
「い、いえ、そんなことは」
「大学に入ればもっと厳しいものが待っています。褒められるうちに褒められておきなさい」
結局は最後に棘が刺さった。三人は同時に頭を下げた。
「ヴァーシ!」
サリアが真っ先に飛びついた。おばあさまたちが一斉にヴァーシャラを取り囲む。
「痩せたんじゃないの。ちゃんと食べてる?」
「ずっと西にいたなら寄ってくれればよかったのに」
「まあまあ座って。今お茶を淹れさせるから」
「用が済んだら泊まっていきなさいな。積もる話があるでしょう」
五人に囲まれたヴァーシャラは露骨に嫌そうな顔をした。
「あなたたち、少し静かになさい。相変わらず賑やかね」
「いいじゃないの、久しぶりなんだから」
「この前会ったじゃないの。それに、私は仕事で呼ばれたのです」
そう言いながらも差し出された椅子には素直に腰を下ろす。長い付き合いの成せる呼吸だった。ネイディーアが目配せをして紅茶を用意させている。チェリはその光景を少し離れて眺めていた。あの厳しい先生が友人たちの前ではこんな顔をするのかと、妙な心地がした。
ひとしきり騒ぎが落ち着いた頃、ヴァーシャラはようやくハリュークのほうへ向き直った。
「それで。相変わらずですね、あなたは」
「……呼び立ててすまない」
「あなたを見ていると心がざわつくの。あまり近づきたくないのよ。用件が済んだらさっさと帰らせてもらいます」
遠慮のない物言いだった。ハリュークは何も言い返さない。おばあさまたちが顔を見合わせて肩をすくめている。
「いつもそれよねえ、ヴァーシったら」
「事実を言っているだけです」
ヴァーシャラは紅茶を一口だけ飲んで卓に戻した。
「話は聞きました。竜を大学へ連れていくために、あの子の気持ちを証明したいのだとか」
「そうだ」
「言っておきますが、私の目が竜に通じるかどうかは分かりませんよ。人の相しか見たことがありませんから」
「試してみるしかない」
ハリュークが短く言った。ヴァーシャラは鼻から息を抜いた。
「相変わらず人使いが荒いこと。それで、その銀の小竜ちゃんはどこにいるのかしら」
合図を受けて使用人が大きな籠を抱えて運んできた。チェリもその後に続く。
卓の上に下ろされた籠が小さく揺れ、隙間から白銀の頭がのぞく。部屋の全員の視線がそこへ集まった。
シルヴァーンとヴァーシャラの目が合った。
「きゅいっ!」
短い鳴き声とともに、白銀の頭は籠の奥へ引っ込んでしまった。
「あら」
ヴァーシャラが眉を上げる。
「嫌われたものね」
「す、すみません。人見知りをするので……」
チェリは慌てて籠に手を添えた。この子がヴァーシャラを避けるのは自分が怖がっていたせいなのだろうかと、そんな考えが頭をかすめる。礼儀作法の授業の間、シルヴァーンはこの人と顔を合わせたことがない。それでも自分の気持ちがどこかで伝わっていたのかもしれなかった。
「シルヴァーン。大丈夫だから、出ておいで」
根気よく呼びかけると、シルヴァーンはおそるおそる顔を出した。チェリがそばにいるのを確かめ、それから籠の縁に前足をかける。ヴァーシャラのほうは警戒したままで、青い目がじっと動きを追っていた。
「なかなか賢い子ですね」
ヴァーシャラが椅子を立って籠に近づいた。おばあさまたちが息を詰めて見守る。ハリュークは腕を組んで動かない。
「さて。竜の相など見たことがありませんけれど」
そう言って身をかがめ、シルヴァーンの青い目を覗き込んだ。
その瞬間だった。
ヴァーシャラの肩がびくりと跳ねた。目を見開いたまま動きが止まる。何かを言おうとしたのか唇がわずかに動いた。声にはならなかった。
そのまま、糸が切れたように崩れ落ちる。
「先生!」
チェリが叫んだときには、もうハリュークが動いていた。倒れかけた体を床に着く前に抱きとめる。
「ヴァーシ!」
「ヴァーシャラ!」
おばあさまたちが一斉に駆け寄った。リッテが手首を取って脈を確かめ、ネイディーアが振り返って人を呼ぶ。
「息はある。気を失っただけだ」
「長椅子へ運んで! 誰か、水を持ってきて!」
ガンマが長椅子の上の物を押しのけ、ナハヤが扉へ走った。ハリュークがヴァーシャラを抱え上げ、静かに横たえる。エルナダが膝掛けを広げてかけ、サリアが窓を細く開けた。ミルザだけは倒れた場所にしゃがみ込み、床のあたりへ手をかざして何かを確かめている。
部屋は騒然としていた。
チェリはその輪の外で立ち尽くしていた。籠の中のシルヴァーンが何が起きたのか分からないという顔をして、きゅう、と小さく鳴く。
自分の竜が恩師を倒れさせてしまった。その事実がじわじわと胸の底に広がっていく。
「チェリ」
ミルザが顔を上げた。
「あんたのせいじゃないよ。魔法の痕跡もない。この子は何もしていない」
それでもチェリは唇を噛んだまま動けなかった。




