54 人の意志 信仰の形
アリエは目を見開いたまま、しばらくチェリの顔を見ていた。
穏やかな眼差しは変わらない。けれどその奥で何かが動いている。今までになかった種類の表情だった。
「本人にとって良い方向だとは限らない、と仰いましたね」
「ええ」
「それは、どういう意味でしょうか」
アリエは前のめりにはならなかった。けれど声には、これまでにないほどの興味が混じっていた。
チェリは少し迷ってから口を開いた。
「私の言うことを何でも聞いてくれるなら、それって相手の意志を奪うってことでしょう」
アリエの指が義手の上で止まった。
「相手が嫌だなって思ってることでも私が言えば従ってしまう。本当はそうじゃないのに、好きだって思わされる。そんなの相手にとって失礼だと思う」
アリエの指が、ほんの僅かに震える。
「それに、私自身も困る。誰も本当の私を見てくれていないことになる」
アリエはわずかに息を呑んだ。
「ディラもタウラもナハヤもガンマも兄たちも、私のことを大事にしてくれてる。私もそう信じてた。でも、もしそれが私の能力のせいだったら――皆は私のことを本当に好きでいてくれてるんじゃなくて、別の何かを見せられて好きにさせられてるってことになる」
チェリは口元を引き締めた。
「そんなの嫌よ」
アリエは黙って聞いていた。
「それに私、特別扱いされたくないの」
チェリの声が少し低くなった。
「お祖父様が私だけを贔屓するから、親族の中で居心地が悪いの。みんな気を遣う。私が勉強や剣を好きでも誰も止められない。お祖父様が黙認してるから。でも、そういうのは嬉しくない。私はただ自分の力で評価されたい。私の言葉に皆が従うんじゃなくて、私が自分でできることを認めてもらいたい」
チェリは顔を上げた。
「だから、もしそんな能力が私にあるなら――嫌よ。なくしたいくらい」
アリエはしばらく何も言わなかった。
義手の指がゆっくりと曲がり、また伸びる。彼の口元がふっと緩んだ。
次の瞬間、アリエは声を漏らして笑った。
軽い、けれどはっきりとした笑い声だった。これまでの穏やかな微笑とは別物の、抑えきれずに出てしまったような笑い方だった。
チェリは戸惑って眉を寄せた。
「な、何よ」
「いえ、失礼を」
アリエは手で口元を覆ったが、笑いは止まらなかった。義手の左手もわずかに揺れている。
「申し訳ありません。チェリ様を笑ったのではないのです」
ようやく息を整えて、アリエは顔を上げた。眼差しに、これまでなかった光があった。
「ただ、今、目の前が開けたような気がしまして」
「目の前?」
「ええ」
アリエは右手で義手の甲を撫でた。
「離反してから私は、信仰というのは外から押し付けられるものではないと考えるようになりました。自分の頭で考え、自分の目や足を使って確かめるべきものだと」
義手の指が卓の上で軽く曲がる。
「だから私は、左腕を餞別代わりに教団に置いてきました。聖印に意味などないと知った私が、わざわざ持って出る必要もない。拝みたい者は拝めばいい、信徒たちが自分で考えようとしないのは彼ら自身の問題だ。そう思っていました」
アリエは茶碗の縁を指でなぞった。
「正直に申し上げますと、教団に残る者たちを愚か者だと、私は見限っていたのです。でも、チェリ様のお話を伺って、気づきました。私は『相手の意志を尊重する』と言いながら、実は彼らを見捨てていただけだった」
チェリは目を見張った。
「考えない者を愚か者と切り捨てて、聖印を残してきた。けれどその聖印がそこにある限り、信徒たちは拝む対象を持ち続けます。拝む対象がある限り、自分の頭で考える機会は生まれない」
アリエはチェリの目を見た。
「真に彼らの意志を尊重するなら――シンボルそのものを取り去るべきだった。彼らが自分で考えるためには、拝む対象を奪わなければならない」
義手の指が一度だけ強く曲げられた。
「私は彼らを見限ることで、結果的に彼らから『自分で考える機会』を奪っていた。チェリ様の仰る通り、相手の意志を奪っていたのは私のほうだったのです」
アリエは小さく笑った。
「私はそこまで考えが及ばなかった……ありがとうございます、チェリ様」
アリエは頭を軽く下げた。
「感謝される謂れはないけど……」
チェリは眉をひそめて言った。
「私にとっては大きな贈り物をいただいた気分です」
顔を上げたアリエの目には、まだ笑いの余韻が残っていた。けれどそこに、新しい決意も加わっていた。
「なので、私、これから左腕を取り返してこようと思いまして」
チェリは思わず固まった。
「えっ」
「教団に置いてきた、私の左腕です。あれがある限り、信徒たちは拝む対象を失えない。回収します」
アリエは穏やかに、けれどはっきりと宣言する。
「ついでに、教団そのものも潰してしまうつもりでいます」
チェリは口を半分開いたまま、相手の顔を見ていた。
「……ついで、なの?」
「ええ」
冗談を口にするような軽さだったが、内容は冗談ではない。
「内部分裂の工作はもう動き始めています。敵対派閥にコンタクトを取りましたとお話ししましたが、その先のことです。教団そのものが立ち行かなくなる方向に、少しずつ環境を整えていく」
「……あなた一人で?」
「一人ではありませんよ。離反者は私だけではない。先ほどお話しした青籠亭のような場所もある。四十年前の離反者たちが整えてくれた地盤もありますし」
アリエは茶碗の縁を指でなぞった。
「シルヴァーン様を狙う組織を残しておけば、また同じことが繰り返されます。それは私としても避けたいので」
チェリは膝の上で手を握った。
シルヴァーンを守りたい気持ちは、もちろんある。教団がいなくなれば、それは確かに安心ではある。
(でも「潰す」というのは……)
組織を解体するということだ。けれどそれは、人を傷つけることも含むのではないか。アリエは「現場で始末しました」と平然と言える人だ。彼が「潰す」と言うとき、その言葉にどれだけの血が伴うか。
チェリは口を開いた。
「私はそこまでしてほしいわけじゃない」
声に少しだけ重さが乗った。
「シルヴァーンは大事よ。でも、教団を潰してまで守ってほしいとは……思ってない」
「ご心配なく」
アリエは穏やかに答えた。
「これは私個人の決定です。チェリ様のご依頼ではない。私が自分の判断でやることに、チェリ様が責任を感じる必要はありません」
「でも――」
「私は、過去を清算したいのです」
義手の指が静かに卓の上に置かれた。
「私の都合です」
チェリはしばらく彼の顔を見ていた。アリエの目には、もう先ほどの笑いの余韻は残っていなかった。穏やかさだけが戻っている。
止められない、と思った。これは彼が自分のためにやることで、チェリが頷こうが反対しようが、彼は彼の道を行く。
チェリは小さく息を吐いた。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「ただ、無茶はしないで。あなたが死んだら、私、寝覚めが悪いから」
アリエは少し驚いた顔をして、それからまた笑った。今度は静かな笑い方だった。
「肝に銘じます」
茶碗の中の茶はすっかり冷めていた。
アリエは姿勢を正して、チェリに向き直った。
「今後、私からチェリ様にご連絡することがあるかもしれません。けれど私は国からも教団からも追われている身ですし、何より、チェリ様に直接接触するのは危険です」
「……そうね」
チェリは呆れ声で応えた。アリエはこんな所でゆっくりとお茶を飲んでいられる立場ではない。
「ですから、ご連絡はタウラ様を通じて差し上げます。よろしいでしょうか」
入り口の傍で立っていたタウラがほんの少し姿勢を変えた。チェリは振り返ってタウラの顔を見た。タウラは小さく頷いた。
「分かった。タウラを通して」
「ありがとうございます」
アリエは胸に右手を当てて、軽く一礼した。
「本日はお時間をいただき、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。色々と話してくれて」
チェリは立ち上がった。タウラが扉に手を掛ける。
部屋を出る間際、チェリは振り返った。
「アリエ」
「はい」
「……私、あなたのすることの邪魔はしない。でも、行動を肯定しているわけじゃないから」
アリエは少し目を見開いて、それからゆっくりと頭を下げた。
「存じております」
* * *
個室を出ると、マスターはまだ調理場で器を磨いていた。チェリがカウンターの前を通る時、マスターは視線を上げず、けれど布巾の動きを少しだけ止めた。それは挨拶の代わりだったのかもしれなかった。
青籠亭を出ると、午前の日差しが路地を斜めに照らしていた。
路地を抜けて繁華街の通りに戻ると、街の音が急に近くなった。馬車の音、呼び売りの声、行き交う人々の足音。さっきまでいた小さな部屋とは別の世界のようだった。
「チェリ様」
「うん」
「お疲れ様でございました」
タウラの声はいつもと同じ落ち着いた調子だった。けれど少しだけ労りがこもっていた。
「タウラもお疲れ様。立ちっぱなしで。あと勝手に連絡役に……」
「私のことはご心配なく」
チェリが言い終わる前にタウラは遮るように答えた。
二人は宿への道を歩き始めた。チェリは外套の前を少しだけ握って歩いた。
歩きながら、頭の中ではまだ色んなものが渦巻いていた。お祖父様のこと、自分のこと、アリエのこと、教団のこと。
でも、今は宿に戻ろうと思った。シルヴァーンが待っている。ナツ兄もナル兄もナハヤもガンマもいる。あの皆の温かさが、今の自分には何より必要だった。
たとえそれが、自分の特性のせいだったとしても。
そうじゃないと、信じたかった。




