53 離反の謎 祖父の血統
「……宿の襲撃犯のことですが、お気づきですか」
アリエが静かに話を切り出した。
「教団を抜けたいと言っているっていう話でしょう」
「はい。ですが私はこれをただの裏切り者の証言とは見ていません」
アリエは茶碗の縁に右手の指を添えた。義手の左手は卓の上で動かない。
「四十年前に西領主の城で起きたこととよく似ているんですよ。寝返るという事象そのものが」
チェリは膝の上で指を組み直した。
「四十年前は城に長くいたから寝返ったんじゃないの。襲撃犯は宿に来ただけよ。お城には来てない」
「ええ。だから不思議なんです」
アリエは穏やかに頷いた。
「四十年前と同じことが城の外でも起きている。これをどう説明するか」
「お祖父様が何か仕掛けてるってことじゃないの」
チェリは思いついたまま口に出した。
あの祖父ならやりかねない。城のどこかに人の心を変える魔道具を仕込んでいるとか、飲み水に何か混ぜているとか、そういう類の。直感だが否定できる気もしない。
アリエは少し笑った。
「私もまずそれを疑いました」
義手の指がわずかに動いた。
「教団の工作員として城に潜入する以上、何かしら作用を受ける可能性は最初から想定していました。魔力感知の訓練は受けています。私なりに丁寧に確認しました。飲食物、寝室の壁、衣装の裏、教室の床。結界の有無も含めて」
「それで」
「何もありませんでした」
アリエはチェリの顔を見た。
「正直拍子抜けしたほどです。何かあるはずだと思って探したのに何もない。それでも私は寝返った」
チェリは唇を結んだ。
「じゃあお祖父様が直接何かしたんじゃないの。お城で挨拶したんでしょう。その時に何かされたのかも」
「私もそう疑いました」
アリエは頷いた。
「あの方の前に立った時の重圧は確かに普通ではなかった。何かされていてもおかしくないと自分でも思いました」
義手の指が卓の上で軽く曲がる。
「ですがそれも違うのです。襲撃犯はハリューク様と一度も会っていません」
チェリは目を開いた。
「……あ」
「お分かりですか。襲撃犯は宿でシルヴァーン様に撃退されハリュナル様とナツァーク様に捕縛されて、騎士団の地下牢に送られました。ハリューク様は西領地にいらっしゃいます。一度も顔を合わせていない」
「……でも、寝返ろうとしている」
「ええ」
アリエは茶碗から指を離した。
「ハリューク様が直接何かをされたのなら対面していない襲撃犯には作用しないはずです。ですが現に作用している。場所の仕掛けでも説明がつかない。襲撃犯は宿にも長くはいませんでしたし、騎士団の地下牢に仕掛けがあるはずもない」
チェリは黙った。
「四十年もの間教団は分析を続けてきました。何かの術や仕掛けが見つかったという報告は一度もありません。四十年もの間特定できない仕掛けが機能し続けるのは現実的に難しいでしょう」
アリエは静かに続けた。
「だから仕掛けではなく、人に由来する仕掛け――作用なのです」
チェリは膝の上で拳を握り直した。
「人ってことは、お祖父様本人じゃないってこと?」
「ハリューク様だけでは説明がつかないのです。襲撃犯はあの方と接触していない」
「じゃあ、誰」
アリエは右手で茶碗をそっと持ち上げまた置いた。
「孫世代の方々です」
チェリの肩がほんのわずかに揺れた。
「四十年前にはいなかった方々が今はいらっしゃる」
「……でも私だけじゃないわ。ナル兄もナツ兄もナハヤもガンマもいる」
「はい。一人ずつ考えていきました」
アリエは姿勢を正した。
「ハリュナル様とナツァーク様は襲撃犯を捕縛されています。お二人の作用で寝返ったという可能性も考えました。ですがお二人は大学で何年も過ごされています。寮、講義、その他の場でたくさんの方々と日常的に接しておられる。もしお二人に作用があるならこれまでに教団を離反した者が大学関係者から複数出ているはずですが……」
「……そういう人はいないの」
「四十年前以降、西領地の城に潜入した者以外で敬虔な信徒が突然寝返ったという事例は私の知る限り報告されていない」
チェリの呼吸が少し浅くなった。
「ナハヤ様、ガンマ様も考えました。お二人とは私が城にいた間、毎日授業で顔を合わせていました。もしお二人に作用があるなら、私が寝返った理由としてお二人も候補になります」
そこで、アリエは一呼吸置いた。
「ですが、お二人と接していて、何か特別なものを感じたことはありませんでした」
アリエの眼差しがわずかに伏せられる。
「お二人とも素晴らしい資質をお持ちです。けれどそれは才能や努力の問題で、それ以上ではない。私が寝返った理由として、お二人を挙げることはできません」
アリエはそっと両手を組み直した。
「ハリューク様はチェリ様だけを特別扱いされている」
チェリは口を開きかけて閉じた。
「他のお孫様方を粗末にしているわけではないと伺っています。ただチェリ様にだけは明確に違う扱いをされている。それは私が城にいた短い間にもはっきりと感じ取れました」
アリエの眼差しがわずかに伏せられた。
「あの方はご自分の性質――何かしらの能力、特性のようなものを受け継ぐのが誰かご存知なのではないでしょうか」
「……それだけで決めつけるのは無理があるわ」
チェリの声がわずかに震えた。
「お祖父様が私を特別扱いしてるのはただ唯一の孫娘だからかもしれない。それだけのことかもしれないでしょう」
「ええ。それだけなら、そうかもしれません」
アリエは穏やかに同意した。それからほんの少し声を落とした。
「ですが私自身、城で授業に立ち会っていた時に感じていたことがあります」
チェリは顔を上げた。
「ナハヤ様にもガンマ様にも特別な何かは感じませんでした。お二人とも素晴らしい資質をお持ちですが、それは才能や努力の問題でそれ以上ではない。ですがチェリ様の前に立つと、うっすらと何かを感じていた。言葉にはできない、けれど確かに何かを」
義手の指が卓の上で一度だけ静かに動いた。
「最初は私の信仰心が揺れているからだと思っていました。教団の教義に反する場所にいるのだから心が乱れているのだろうと。けれど離反した今になって振り返ると、あれはチェリ様から発していた何かだったのではないかと思うのです」
「私から……?」
「証拠はありません。私の主観です。けれど襲撃犯がいま教団を抜けたいと言い出していることを聞いた時、四十年前のスパイたちの話と私自身の経験とそれからチェリ様の前にいた時のあの感覚が一つに繋がりました」
アリエはチェリの眼を見た。
「これは仮説です。けれどすべてを説明するにはこれが一番納得しやすい」
チェリは言葉を返せなかった。
膝の上の手がいつの間にか冷たくなっていた。
(――そんなものが自分にあるはずがない)
チェリはこれまで誰からもそんなことを言われたことはない。サジット先生もヴァーシャラ先生もディラもタウラもナハヤもガンマも兄たちも、皆それぞれの理由で自分と関わっている。あれが私の持つ何かしらの特性のせいだなんて思いたくもない。
けれど。
ハリュークがチェリの誕生時に「同じ運命を持っている」と言ったこと。それらが頭の隅で重なり始めていた。
チェリは膝の上でもう一度拳を握った。今度は強く、爪が掌に食い込むほど。
アリエは何も言わず義手の上に右手を重ねたまま静かにチェリを見ている。穏やかな眼差しは何も変わらなかった。
「悲しむことはありませんよ。それが何かしらの能力――仮に『敵意が消える』『好感を持たれる』などの作用が起こるとしたら、全てがあなたにとって良い方向に向かうということではないですか」
「……本人にとって良い方向だとは限らないでしょう」
アリエの目がわずかに見開かれた。




