51 青籠亭 離反者の話
翌朝、宿の食堂はいつもより静かだった。
ディラは早くに出かけていった。フィウクスとの待ち合わせの時刻があるからだ。いつもよりほんの少し化粧を整えて足取り軽く宿を出ていく姿を、チェリは窓から見送った。
朝食を済ませた頃、ナツァークがシルヴァーンの籠を抱えてやってきた。アミュレットを取り付けた大きな籠はシルヴァーンが頭を起こすたびに鎖が小さく揺れる。
「シルヴァーンは私が見ている。チェリはゆっくり買い物を楽しんでこい」
「ありがとう、ナツ兄」
シルヴァーンは、籠の縁から顔を覗かせてナツァークを見上げていた。出会ってから日は浅い。なのに、なぜか懐いている。ガンマには未だに頭突きをするというのに、ナツァークの指には大人しく頬を擦りつける。
「どうやって手懐けたんだ?」
「特に何もしていないが」
ハリュナルが眉を寄せると、ナツァークは少し考えて、籠の中のシルヴァーンに目を落とした。
「強いて言えば、よく話しかけているくらいだ」
「俺だって話しかけているが」
「兄上のは話しかけているというより命令では?」
ハリュナルは反論しかけたが、ナツァークの言い分に一理あると感じたらしく、口を閉じた。シルヴァーンは話の意味など分からないという顔で、籠の中で身体を伸ばしている。
「では、行ってきます」
チェリは外套を羽織った。タウラが扉の前で待っている。
「気をつけて」
ナツァークの声に見送られて、二人は宿を出た。
* * *
昨夜、チェリは地図を何度も見直していた。
繁華街の中央通りを抜け、二つ目の角を西へ。そこから細い路地を一本入った先。地図には店の位置だけが簡素に記されていた。
歩いて四半刻ほどで、目当ての路地に入った。中央領首都の中心部とは思えないほど、その通りは静かだった。石畳の隙間に苔が生え、看板の少ない店が並んでいる。古書店、仕立屋、金物屋。買い物客の姿はあるが声を張る者はいない。
その路地の奥に、ひっそりと喫茶店が建っていた。
木製の看板に、青い鳥籠の絵が描かれている。「青籠亭」と書かれた文字は控えめで、目を凝らさなければ見落としそうだった。
「ここですね」
タウラが小声で言った。チェリは頷いた。
扉を押すと、乾いた鈴の音がした。店内は思ったよりも広く、木の梁が低く渡された落ち着いた造りだった。卓は五つほど。客は二人連れが一組と、一人で本を読んでいる老紳士が一人。誰もチェリたちを振り返らなかった。
カウンター席の奥の調理場に初老の男が立っていた。白髪交じりの髪を後ろで束ね、眉が太い。手元の布巾で器を磨きながら、視線だけをこちらに向けてくる。
チェリはタウラに目配せして、マスターの近くへと歩み寄った。
「あの、アリエと待ち合わせをしているんですけど」
マスターの手が、ほんの一瞬止まった。
それから何事もなかったかのように器を磨き続け、布巾の動きと同じ調子で短く言った。
「奥のお部屋へどうぞ」
手を上げて、店の奥を指す。卓の並びの先に、暖簾の下りた小さな入り口があった。チェリは礼を言って、そちらへ向かおうとした時、マスターから低く小さな声が掛けられた。
「うちは、信徒の店ではありませんから」
チェリは振り返った。マスターはそれ以上何も言わず、視線も上げずに器を磨き続けている。
チェリは小さく頷いて、暖簾をくぐった。タウラは半歩後ろをついてくる。
* * *
個室は、四人掛けの卓が一つ置かれただけの狭い部屋だった。窓はなく、天井から吊るされた小さな魔道具の灯りが、橙色の光を落としている。
卓の向こう側に、男が一人座っていた。
自称アリエ・キンディール。他人から借りた名前。本名は知らない。
二十代後半の、穏やかな顔立ちの男だった。城で初めて会った時とほとんど変わらない、思慮深い印象の眼差し。違うのは左腕だ。袖から覗くのは金属と木を組み合わせて作られた義手だった。指の関節が滑らかに作られていて、卓の上で軽く曲げ伸ばしされる動作にはわずかに軋む音が混ざっている。
「お越しいただき、ありがとうございます」
偽アリエは静かに立ち上がり、軽く頭を下げた。
タウラは入り口の傍に立ったまま、室内を一通り見渡した。窓なし、出入り口は今くぐった一つきり。卓の上には茶器が二つ。男の手元には武器の類は見えない。義手の左腕も、外見上は純粋な義手以上の機能は確認できない。
チェリが偽アリエの対面の椅子を引いて、腰を下ろした。
「呼び出して、ごめんなさい――じゃなく、呼び出されたのは私の方か」
「お時間を頂戴して、申し訳ありません」
「いいの。私も話したいことがあったから」
チェリの分も茶が淹れられていた。湯気が灯りの下でゆっくりと立ち上っている。
「……気になるようでしたら、私が先に口を付けますが」
「いいわ。信じる」
チェリは茶碗を持ち上げ、一口飲んだ。香ばしい、よく知らない茶の味がした。
偽アリエも茶碗に口をつけた。義手ではなく、右手で。
「警戒なさったでしょう。青とついた店の名で」
「……少しだけ」
「マスターから話があったかもしれませんが、ここは教団から離れた者たちが出入りする店です」
偽アリエは茶碗を置いて、両手を膝の上で組んだ。義手の指が、生身の指の上に静かに重ねられる。
「離反者、という言い方が正確かもしれません。私のように」
その言葉に、チェリは顎を引いた。
「教団の話を、聞かせて」
「はい。それがお呼びした理由ですので」
偽アリエは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「結論から申し上げますと――今回の大学での爆発も、宿への侵入も、すべて蒼眼の竜の仕業です」
チェリは膝の上で拳を握った。タウラの視線が、わずかに鋭くなる気配がした。
「狙いは、シルヴァーン様です。シンボルとして、教団の手元に置きたい」
「……シルヴァーンは渡さないわ」
「ええ。私もそう願っています」
偽アリエは穏やかに頷いた。穏やかすぎて、かえって芯の強さが透けて見える眼差しだった。
「ただ、お話ししておきたいのは、教団がなぜここまで強引に動いているか、という点です」
チェリは黙って続きを促した。
「四十年ほど前のことだそうです」
偽アリエは、ゆっくりと語り始めた。
「当時、蒼眼の竜は設立されたばかりの新しい教団でした。教団は各地の貴族や領主の懐に信徒を潜り込ませて、情報を集めようとしていたそうです。さらに、そこであわよくば信者を増やそうともしていた」
卓の上で義手の指が一度、軽く動いた。
「西領主の城にも信徒が何人か送り込まれました」
「うちの城に?」
「ええ。けれど――誰一人、戻ってこなかったそうです」
チェリの眉が、わずかに動いた。
「始末されたというわけではないんです。送り込まれた者たちは全員、自分の意志で教団を離れて、ハリューク様にお仕えする結果になりました」
タウラの視線がちらりとチェリに向く。チェリは口を引き結んでいた。
「敬虔な者を選んでも、結果は同じだったそうです。最も信仰の深い者を送り込んでも、何ヶ月か経つとその者は教団に戻らず、ハリューク様の側に残ることを選ぶ。何度繰り返しても、同じ結果でした」
「……信じられない」
「私も伝聞で聞いた話です。私自身は四十年前のことを体験したわけではありません。不信心な者たちを西領主のせいにして体よく切り捨てでもしたのか、なんて思ったりもしましたが……」
偽アリエは自嘲のような、薄い笑みを浮かべた。
「ともかく、教団は最終的にこう判断したそうです。西領主の元には二度と信徒を送り込まない、と。理由は誰にも分からないけれど、あそこには何かがある。送れば送るだけ信徒を失うだけだ、と」
チェリは唇を噛んだ。あの祖父が何かのアプローチをしてそうなったのだ、と直感した。
「その決定は、長らく守られてきました。四十年、ずっと」
偽アリエは茶碗を持ち上げ、また置いた。中身は、ほとんど減っていない。
「ですが、シルヴァーン様が現れた」
チェリは息を呑んだ。
「青い眼を持つ竜。教団にとって、これ以上ないシンボルになり得る存在です。しかもその竜は西領主の城にいる。昔の取り決めは覆りました。送り込んでも、今度は大丈夫だろう、と」
「どうして?危険だと判断したんじゃ……」
「四十年前のことを直接知っている幹部が、ほとんど残っていなかったからです」
偽アリエの声に、初めてわずかな苦さが滲んだ。
「逆に洗脳されるなどあり得ない、と。それは過去の幹部たちの言い訳に過ぎなかったのではないか、と。今の幹部たちは、そう考えました。それで――私が選ばれました」
偽アリエは、自分の左の義手を、右手でそっと撫でた。
「こう見えても私、とても敬虔な信徒だったんですよ」
その言葉には、誇りでも未練でもない、もっと複雑な響きがあった。
「教団に入ったのは十二歳の時でした。家族も、友人も教団との繋がりがほとんどです。聖典の内容も、儀礼の作法も身体に染み込んでいる。離反するなど自分でも想像したことがなかった」
義手の指が、卓の上で、一度だけ強く曲げられた。
「ですが、私もまた、戻れませんでした」
偽アリエは顔を上げた。眼差しは、不思議なほど穏やかだった。
「四十年前と同じです。私は教団を離れて、こちら側にいる。なぜそうなったのか、自分でもまだ整理がついていません」
チェリは、黙って彼を見つめた。
偽アリエが、ゆっくりと続けた。
「同じ轍を踏み、敬虔な信徒に離反された教団幹部には、強い焦りがあります」
偽アリエは義手の左手の甲に右手を重ねた。
「私の左腕は聖印として教団の手に渡りました。けれどそれだけでは信徒への求心力としては足りません。何しろ、聖印を残した張本人が離反したのですから」
自嘲とも諦めともつかない、薄い笑みが口元によぎった。
「だから、何としてもシルヴァーン様を手に入れたい。新たな、確かなシンボルとして。大学での爆発も宿への侵入も、その焦りの現れです」
「……そう」
「そして」
偽アリエは、一度息を吸った。
「まあ、シルヴァーン様の居場所を教団にリークしたのは、私なんですけどね」
部屋の空気が、止まった。
「なっ……」
チェリは、続く言葉を失った。
タウラが入り口で半歩、足を踏み出すのが見えた。けれどそれ以上は動かなかった。チェリが手を上げて留めたからだった。
偽アリエは義手の上に右手を重ねたまま、静かにチェリを見ている。穏やかな眼差しは何も変わらなかった。




