50 手紙の内容 試験後の夕食
宿に戻ると、チェリは「少し一人になりたい」と告げて、寝室として使っている部屋に下がった。
部屋に入る直前、タウラが懐からそっと封筒を差し出してくる。受け取る指先が、わずかに震えた。
扉を閉め、寝台の縁に腰を下ろす。封を切る音が、部屋の静けさに小さく落ちた。
便箋は二枚だった。
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明日の午前、喫茶店「青籠亭」にてお待ちしております。店主に「アリエと待ち合わせ」とお伝えを。
危害は加えません。なるべく少人数で。
アリエ
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もう一枚には、手書きで簡素な地図が書いてあった。
チェリは便箋を膝の上に置き、しばらく動かなかった。
窓の外で、誰かが馬を引いていく音がする。中央領の街は西領地よりも騒がしく、馬車の音や呼び売りの声が、絶え間なく窓を叩いていた。
行くべきだろうか。
行かないべきだろうか。
偽アリエは敵ではない――少なくとも、これまでのところは。子供を使って警告の手紙を寄越し、大学の事件では何かを止めたかもしれない。けれど何をしようとしているのかは依然として分からないし、教団と「手を切った」というのも本人がそう言っているだけで、真偽ははっきりしない。
ただ、彼には確かめておきたいことはある。
試験中に大学構内に姿を現したこと。爆発事件や誘拐未遂など、ここ数日で気になることが多く起きている。
チェリは便箋を畳み、封筒に戻した。寝台から立ち上がり、扉を開ける。廊下に控えていたタウラがすぐに顔を上げた。
チェリは目配せして、タウラを部屋に招き入れた。
「タウラ、お願いがあるの」
「はい」
「明日、こっそり宿を出たい。護衛をしてほしいの」
タウラの琥珀色の眼が、わずかに細まった。
「……どちらへ?」
「首都の中。詳しい場所は朝に話す。それと――」
チェリは少し声を落とした。
「このことは誰にも言わないで。ナル兄にも、ナツ兄にも、ナハヤにもガンマにも、ディラにも」
タウラは少しの間、無言だった。赤い髪が窓からの光を受けて、燃えるような色に染まっている。
「承知いたしました」
頷きは、思いのほか早かった。
「ただし、危険があると私が判断した場合は、即座に撤退いたします。それでよろしければ」
「うん、それでいい」
チェリは小さく息を吐いた。
「ありがとう、タウラ」
タウラは胸に手を当てて、軽く一礼した。
* * *
チェリが部屋に戻ってから、タウラは廊下の壁に背を預けた。
――旦那様への報告は、どうしたものか。
馬車旅の途中、最初の手紙のことをハリュークに伝令で報せた。その時に返ってきた指示は、短いものだった。
『チェリのいうことはできるだけ聞いてやってほしい。力を貸してやってほしい』
それだけだった。
タウラは最初、その指示の意味を測りかねた。護衛の指揮権を孫娘に渡すのか、と。けれど道中でチェリの様子を見ているうちに、ある程度のことは察した。あの少女は何か考えがあって動いている。そしてその考えを簡単には他人に明かさない性格だ。祖父はそれを知っていて、タウラに「聞いてやれ」と言ったのだろう。
ただし、報告は別だ。
タウラは廊下を歩き、自室に入った。卓に紙を広げ、魔力筆を取る。手短に、二通目の手紙が届いたこと、明日の午前中に外出予定があること、行き先は首都内であることを書いた。詳しい場所は明朝にならねば自分も知らない。
書き終えた手紙は折り畳み、宿の伝令係に託した。西領地への急ぎの便で送られる。
チェリには言わない。それも指示のうちだ、とタウラは判断した。
* * *
夕餉の時刻が近づいた頃、宿の者が来客を伝えに来た。ディラが小走りに階段を下りていく。やがて戻ってきたディラの後ろに、若い男の姿があった。
「チェリ様、皆様。弟のフィウクスが参りました」
ディラの声が、いつもより少し高い。
フィウクスは、姉によく似た顔立ちをしていた。少し癖のある髪、控えめな目元、緊張しながらも背筋を伸ばして立っている姿勢。脇に抱えた鞄を大事そうに持ち直している。
「お初にお目にかかります。フィウクスと申します。姉がお世話になっております」
深々と頭を下げる。チェリは席を立って、軽く会釈を返した。
「チェリです。話は聞いてます。今夜は一緒に食べていって」
「いえ、そんな、私のような者が――」
「いいから座って。ディラも」
フィウクスは姉の顔を見て、姉が小さく頷いたのを確認してから、ようやく端の席に腰を下ろした。抱えていた鞄の中から紙の束を取り出し、おずおずとディラに差し出す。
「これ、家族に手紙。次に帰るのはまだ先だから、姉さんが帰った時に渡してほしくて」
「あら、こんなに?」
ディラが束を受け取って苦笑した。確かに、便箋十数枚はありそうな厚みである。
「父様と母様と、それから――」
「分かった、皆に渡しておく」
ディラは大事そうに束を抱え、自分の鞄にしまった。
料理が運ばれてきて、食卓が賑やかになった。フィウクスは最初こそ硬かったが、ディラに聞かれて大学の話をするうちに、少しずつ緊張が解けていく。
「平民の多い寮に入っていまして、同郷の先輩方も結構いらっしゃるので、よくしていただいています」
「東寮か。お祖父様が建てた寮だな」
ハリュナルが何気なく言うと、チェリは露骨にうんざりした顔をした。
「またお祖父様か……」
「お祖父様の名前を見たくないなら大学には通えないな。あちこちに『寄贈』という文字と名前が並んでいるし」
「ええ……そこまでなの……」
ナツァークの話を聞いて、チェリはさらに顔を曇らせる。
「すぐ慣れる」
「慣れるものかなぁ……」
チェリがため息をつくのを見て、ハリュナルとナツァークは顔を見合わせて笑った。
話が一段落した頃、ディラがフィウクスに向かって言った。
「明日、私と二人で買い物に行きましょう。家族にお土産を買って帰りたいの」
「いいの? 姉さんも忙しいんじゃ」
「お休みをいただいたから。中央領でしか買えないものを買いたいの。せっかくだし」
チェリはその会話を聞きながら、一拍置いて、口を開いた。
「私もタウラと買い物に行くわ。ちょっと見てみたい店があるの」
ガンマが顔を上げた。口元に肉汁を付けたまま。
「俺も行く」
「いえ、ガンマ様」
すかさずタウラが割って入った。表情は柔らかいが、声は明確だった。
「女性だけで買いたいものがあるんですよ」
ガンマが眉根を寄せた。
「何だよ、それー」
「デリカシーがない」
ナハヤがぽつりと呟いた。ガンマがナハヤを睨んだが、ナハヤは涼しい顔で食事を続けている。
「ガンマ、明日は宿で休んでいなさい。三日間お疲れ様」
ナツァークが穏やかに言うと、ガンマはぶつぶつ言いながらも、結局それ以上は食い下がらなかった。
チェリは小さく息を吐いた。
タウラは何食わぬ顔で給仕の手伝いに回っていたが、チェリと一瞬だけ目が合った時、ほんの僅かに頷いて見せた。
大丈夫、ちゃんと秘密は守ります――そう言われた気がした。




