49 別室の試験 封書再び
試験三日目の朝、宿の部屋にハリュナルとナツァークが揃って顔を出した。朝食を終えたばかりのチェリは、兄二人の顔を見るなり立ち上がる。
「ナル兄、お願いがあるの」
「なんだ、チェリ。言ってごらん」
ハリュナルは目を輝かせた。妹からの頼み事ほど嬉しいものはないという顔である。ナツァークが呆れた視線を寄越したが、ハリュナルは意に介さない。
「魔法封じの魔道具が欲しいの。シルヴァーンに着けられるもの。首輪みたいなのか、小さくて持ち運びしやすいものがいい」
「なるほど。昨日の今日だからな、当然の備えだ」
ハリュナルは真顔で頷くと、もう片足を扉に向けていた。
「任せろ。どんな手を使っても手に入れる。昼までには戻る」
「おい、兄上」
引き止めようとしたナツァークの声は届かず、ハリュナルは風のように飛び出していった。扉が閉まる音が一拍遅れて響く。ナツァークは溜息をついた。
「……別にそこまで貴重な品でもないのに大袈裟な」
「ナツ兄は行かないの?」
「俺は念のためこっちに残る。兄上と二人で出かけて、宿に何かあったら困るからな」
「では、行ってきます」
「ああ、頑張れ」
ナツァークに見送られ、チェリたちは大学へと向かった。
チェリたちが出ていった後、ナツァークは部屋の床に置かれた籠を見下ろした。籠の中では、シルヴァーンが丸まってこちらを見上げている。青い眼が、朝の光を受けて金に滲んだ。
ナツァークは籠の隣に椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「――敵に問答無用で攻撃するのは控えてくれると助かるんだが」
ナツァークは静かに話しかけたが、シルヴァーンは首を傾げただけで、すぐに視線を逸らした。聞いていないのか、聞く気がないのか。
シルヴァーンは姿勢を変えず、ただ呼吸に合わせて鱗が微かに動く。脱皮後の虹色の光沢が、窓から差し込む光に揺れていた。
「ナツァーク様」
控えていたディラが、少し躊躇うように声を掛けてくる。
「やっぱり、あの……一昨日と昨日のは偽アリエの関係、なんでしょうか」
ナツァークは膝の上で手を組んだ。
「分からない。でも、心当たりがそれくらいしかないのは事実だ」
「……狙いは、チェリ様ではないんですね」
ディラの声が、ほんの少しだけ緩んだ。ナツァークは頷きを返す。
「昨日の宿の襲撃は、明らかにシルヴァーン狙いだった。チェリの部屋には侵入してないしな」
「そう、ですよね」
ディラは胸の前で両手を合わせた。その顔に安堵の色が浮かんだのを見て、彼女は慌てたように籠を覗き込んだ。
「あっ、シルヴァーンが心配じゃないってわけじゃないからね」
言い訳するような口調だった。籠の中のシルヴァーンは、ちらりとディラの方を見たが、やはり気にした様子もなく、頭を前脚に乗せ直した。
「……あまり気にしてなさそうで良かった」
「人間の言葉を理解できるようになれば、弁解も通じるんだがな」
ナツァークの言葉に、ディラは小さく笑った。
「いつかそうなるでしょうか」
「どうだろうな。竜のことはまだ何も分からない」
その時、階段を駆け上がる足音が聞こえた。異様に速い。扉が勢いよく開く。
「手に入れたぞ!」
ハリュナルが息も切らさずに部屋へ飛び込んできた。手にしているのは、小さな布袋だった。中から取り出されたのは、銀色の鎖と、楕円形の石が嵌め込まれたアミュレットである。
「さすがに速すぎやしませんか」
「馴染みの店だからな」
「開店前では?」
「頼んで開けてもらった」
「後で謝罪に行かないと……」
ナツァークが諦めた顔で天を仰いだ。ハリュナルはアミュレットを掲げて籠に近づく。
「シルヴァーン、ちょっと失礼」
籠の中に手を入れ、アミュレットの鎖をシルヴァーンの首に掛けようとした瞬間、シルヴァーンは短く鳴いて身をよじった。首を振り、前脚で鎖を払い、籠の端へと後ずさる。
「待て、暴れるな、痛くはしない――」
ハリュナルの言葉を聞く気配もなく、シルヴァーンは籠の奥で丸くなって警戒の姿勢を取った。喉の奥で低い音を立てている。
「……嫌がってますね」
ディラが控えめに言った。ハリュナルは手を引っ込めて、困った顔で鎖を眺める。
「仕方ない。首輪は諦めて、籠に取り付けておこう」
鎖の端を籠の持ち手に結びつけ、アミュレットを籠の内側に垂らす形にした。シルヴァーンは警戒した姿勢のまま、アミュレットから距離を取っている。
「籠の中にいるならば、ある程度は効果があるだろうが……」
ハリュナルの呟きに、ディラがおずおずと口を挟んだ。
「籠の中におとなしくいるとは、限りませんね」
沈黙が落ちた。ナツァークが顎に手を当てる。
「敵が来たら尚更、籠の中にはいないだろうな」
結局、このアミュレットが役に立つかどうかは、チェリが戻ってから首に着けられるかどうかにかかっている。ハリュナルは腕を組んで、渋い顔で籠を見下ろした。
* * *
大学の試験会場に着き、入り口で受験票を見せた瞬間、係の青年の顔色がわずかに変わった。
「――少々、お待ちください」
奥で短い相談があり、やがて別の職員が出てきて、三人を別の廊下へと案内した。チェリとナハヤとガンマは、顔を見合わせながら職員の後をついていった。
通された部屋は、これまでの試験室とは明らかに違った。壁には絵画が掛かり、床には厚い絨毯が敷かれ、窓には重い布の垂れ幕が下がっている。応接室、あるいは来賓用の部屋だろう。その中央に、机が三つだけ、間隔を空けて並べられていた。机の脚が絨毯に沈んで、わずかに傾いている。急ごしらえの跡が、隠しきれていなかった。
「事情がございまして――ハリューク様のお孫様方には、本日は別室でのご受験をお願いするようにと、上から指示がございました」
職員は深く頭を下げた。
「安全のためでございます。どうかご理解いただきたく」
頭を下げたまま、もう一度、深く。
「ご不便をおかけします。本当に、申し訳ございません」
そこまでされると、拒否する気も失せた。チェリは「分かりました」とだけ答えた。ナハヤもガンマも、特に異を唱えなかった。
昨日の大学構内での爆発、そして昨夜の宿での襲撃。それが伝わっているのだろう、と察しがついた。チェリたちが何者かに狙われているという扱いになっているのだ。ハリュークは大学に多額の寄付と支援をしている。その孫に万が一のことがあれば、大学側も立つ瀬がない。
「三人で試験って、なんだかサジット先生とやった試験みたい」
職員が退出してから、チェリが小声で言った。ナハヤが小さく笑う。
「逆に、落ち着くかもしれない」
「だなー」
ガンマが肩をぐるりと回した。絨毯の敷かれた部屋はやけに静かで、自分の呼吸音まで聞こえてきそうだった。
やがて試験監督が入ってきて、問題用紙が配られた。
結局、その日は何も起こらなかった。
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試験を終えて建物から出ると、門の近くでタウラが待っていた。赤い髪が午後の日差しに揺れている。タウラは三人の無事を見て、目に見えて肩の力を抜いた。
「お疲れ様でございました」
「タウラ、お待たせ」
合流して門へ向かおうとした、その時だった。
「あの、少々よろしいでしょうか」
背後から声が掛かった。振り返ると、監督補助の腕章を付けた学生が、小走りで近づいてくるところだった。二十歳前後だろうか。手に白い封書を持っている。
「こちらを、バイフート家のご令嬢にお渡しするようにと言われまして――」
学生は封書を両手で差し出した。タウラが前に出て代わりに受け取り、不審な様子はないかを確かめてからチェリに渡した。
「誰から?」
「教授補の方だそうです。お名前は伺っておりません」
――教授補。
その一言で、チェリの指先が冷えた。白い封筒。丁寧な筆跡で「チェリーチェ・バイフート様」とだけ書かれている。封蝋はない。以前、街道沿いの町で子供から渡された封筒と、同じ紙、同じ筆跡だった。
偽アリエ。
胸の奥で何かが速く動いた。けれど表情には出さなかった。出してはいけないと、体が判断した。
「なにそれ?」
「チェリにだけ?」
ナハヤとガンマが、怪訝そうに封筒を覗き込んでくる。チェリは封筒を軽く振って見せた。
「さあ。後で読むから、とりあえず持っていて」
そう言って、タウラに封筒を差し出した。
タウラはチェリの顔を見た。ほんの一瞬、視線が止まる。赤い眉が、わずかに動いた。――以前、馬車の中でチェリが誤魔化した、あの封筒だ。タウラの顔にそれが浮かんだのを、チェリは見て取った。
タウラは、何も言わなかった。
「……承知いたしました」
封筒を受け取り、懐の内側にしまう。その手付きは、大事な書類を扱う時と同じ、静かで丁寧な動きだった。
「帰りましょう」
チェリが先に歩き出した。ナハヤとガンマが、まだ何か言いたげな顔をしながらも、結局は黙って後に続く。タウラは最後尾を歩いた。懐の封筒が、胸の辺りで微かに重さを持っている。
大学の門を抜け、宿への道を辿った。午後の日は傾き始めていて、中央領の街並みに長い影が落ちていた。西領地よりも温かい風が、頬を撫でて過ぎていく。
誰も、封筒のことは口にしなかった。




