46 試験の只中 想定外のトラブル
ハリュナルは寮の窓から身を乗り出していた。
試験会場の建物は寮からも見える。見えるといっても、遠くに屋根と壁が見えるだけで、中の様子など分かるはずもない。それでもハリュナルは窓枠に手をかけて、少しでも近づこうとするかのように体を前に倒していた。
「兄上、やめてください。落ちる」
ナツァークが後ろからハリュナルの腰を掴んだ。四階の窓だ。落ちたら無事では済まない。
「チェリが今頃試験を受けてるんだぞ。緊張してないか、鉛筆はちゃんと持ったか、朝飯は食べたか……」
「それは窓から確認できることではないが!」
「もうちょっと……もうちょっとだけ」
ハリュナルは窓枠にしがみついたまま離れようとしなかった。ナツァークが腕を引いても、ハリュナルは驚くほどの力で抵抗した。文武に秀でているというのは伊達ではないらしい。ナツァークは半ば呆れながら、兄の体を引き剥がそうとし続けていた。
その時、ハリュナルの目が変わった。
窓から外を見ていた目が、一瞬で鋭くなった。体の力の入り方が、まるで別人のように急変した。
「あいつだ」
声が低かった。ナツァークが思わず手を離した。
「兄上?」
ハリュナルは大学の構内を見下ろしていた。木立の間の小道を、一人の人物が歩いている。二十代後半ほどの男。穏やかな足取りで、試験会場の建物に向かっていた。
ハリュナルはその男を忘れるはずがなかった。チェリの部屋に侵入し、シルヴァーンを狙った男。氷魔法が届かなかった男。
偽アリエだった。
ハリュナルは窓枠に足をかけた。
「兄上!?」
「行かせるか!」
言い終わる前に、ハリュナルは窓から飛び降りた。
四階。地面までの距離は十ターク以上ある。落下しながら、ハリュナルは片手を地面に向けた。氷魔法が発動し、地面に氷の層が生成された。着地の瞬間、氷が砕けて衝撃を吸収する。それでも膝に来る衝撃は大きかったが、ハリュナルは構わず走り出した。
ナツァークは窓の縁に手をかけたまま、一瞬だけ迷った。四階から飛び降りるなど正気の沙汰ではない。だが、兄を一人で行かせるわけにもいかなかった。
「本当に……」
ナツァークは窓から飛んだ。風魔法を足元に集中させ、落下速度を殺す。ハリュナルほど鮮やかな着地ではなかったが、なんとか体勢を崩さずに地面に降り立った。
「……兄上は!」
先を走るハリュナルの背中を追いかけながら、ナツァークは叫んでいた。
* * *
試験会場では、チェリたちが答案に向かっていた。
残り時間は半分を切っている。サジットの模擬試験で鍛えられた甲斐があり、問題の構成には見覚えのあるパターンが多かった。チェリは鉛筆を走らせながら、サジットの顔を思い浮かべていた。
(先生、当たってるかも)
後半の応用問題に差しかかったところだった。
突然、外で轟音が響いた。
建物が揺れるほどの爆発音だった。
悲鳴が上がった。女子の受験生が何人か椅子から立ち上がり、男子の受験生も顔を強張らせている。部屋全体がざわめいた。
チェリは鉛筆を止めた。手が震えていた。偽アリエの手紙が頭をよぎった。狙われていますが、安心してください。何かあっても動かないように。
試験監督の教授も動揺していた。監督補助の学生たちも互いに顔を見合わせ、オロオロとしている。教授は一人の監督補助の学生を呼び寄せた。
「状況を確認してきなさい。すぐに戻ること」
学生が慌てて部屋を出ていった。
教授は受験生たちに向き直り、努めて落ち着いた声で言った。
「皆さん、そのまま動かないでください。状況を確認中です。この部屋は貴族の子弟に割り当てられた試験室で、魔法による防護が施されています。確認もなしに外に飛び出すよりも、ここにいる方が安全なはずです」
部屋の中に不穏な空気が漂っていた。受験生たちはそれぞれの席で身を硬くしている。チェリはナハヤとガンマの方を見た。二人ともこちらを見ていた。ナハヤは静かに頷いた。ガンマは拳を握っていたが、表情は落ち着いていた。
しばらくして、外に出た監督補助の学生が戻ってきた。
「試験はこのまま続行するように、とのことです」
受験生たちがざわめいた。
「何が起きたんだ。安全は確認されたのか」
年長の受験生が声を上げた。学生は答えに窮した。
「いえ、それが……」
学生は教授のそばに寄り、耳打ちをした。教授の表情が一瞬だけ曇ったが、すぐに持ち直した。仕方ない、というような顔だった。
教授は部屋の前に立ち、はっきりとした声で告げた。
「試験を続行します。私語はやめなさい。試験に集中してください」
受験生たちの間にまだ動揺が残っていたが、教授の毅然とした態度に、少しずつ静まっていった。鉛筆が紙の上を走る音が、一つ、また一つと戻り始めた。
チェリは答案に目を戻した。
何かあっても動かないように。偽アリエの言葉が、今この瞬間のためのものだったとしたら。
混乱していたチェリの頭の中に、ふとサジットの言葉が浮かんだ。
『入学試験でも同じことを仰るおつもりですか。何か予想外のことが起きて集中できなかった、だから点が取れなかった、と』
状況のせいにはしない。
チェリは鉛筆を握り直した。手はまだ少し震えていたが、問題を読み、答えを書いた。今できることは、これしかない。
妙な緊張が部屋の空気に混じったまま、試験は続いた。




