41 シルヴァーン 夜を走る風
チェリたちの馬車が城門を出ていった朝、シルヴァーンは籠の中で眠っていた。
昼頃になって目を覚ますと、部屋にチェリの気配がなかった。
きゅい。
小さく鳴いた。返事はない。
きゅい、きゅい。
籠から頭を出して部屋を見回した。チェリの鞄がない。机の上に広げてあった資料もない。いつもならこの時間にはチェリがいて、頭を撫でてくれるはずだった。
きゅいきゅい、きゅいきゅい。
シルヴァーンは鳴き続けた。声を上げれば、チェリが来てくれると思っていた。今まではそうだった。鳴けばチェリが振り返り、名前を呼んで、手を伸ばしてくれた。
いくら鳴いても、チェリは来なかった。
今までこんなに長くチェリがいなかったことはなかった。授業の間はいつも同じ部屋にいたし、夜も同じ部屋で眠った。チェリの匂いも、声も、温かい手も、何もかもがここにはなかった。
メイドが様子を見にやってきた。シルヴァーンの世話を任された使用人だった。
「シルヴァーン、ご飯ですよ」
果物を差し出したが、シルヴァーンは見向きもしなかった。きゅいきゅいと鳴き続けるばかりで、果物の匂いを嗅ごうともしない。
「困ったなあ……チェリ様がいないと食べないのか」
使用人はしばらくシルヴァーンのそばにいたが、鳴き声は一向に止まなかった。別の果物を試し、水を替え、籠の中の布を整えてみたが、どれも効果はなかった。使用人が部屋を出ても、シルヴァーンの声は廊下まで聞こえていた。
日が傾いていった。
窓から差し込む光が橙色に変わり、やがて薄暗くなっていく。シルヴァーンはまだ鳴いていた。声は少しかすれ始めていたが、止める気配はなかった。
夜になった。
部屋は暗く、静かだった。シルヴァーンの鳴き声だけが、ぽつりぽつりと闇に響く。
突然がたり、と音がする。
シルヴァーンは籠から這い出した。
床に降り、部屋の中をゆっくりと歩いた。窓の下まで来ると、立ち上がって前足を窓枠にかけた。軽く押すと、窓は驚くほど簡単に開いた。
開いた窓から冷たい冬の夜風が吹き込んできた。
シルヴァーンは窓枠に飛び乗り、一瞬だけ部屋の中を振り返った。それから翼を広げて、夜の闇に身を投じた。
小さな白銀の影が、城壁を低く跳び越えた。城門の脇を音もなく抜け、眠りかけた街の屋根の上をかすめていく。街を抜けると、街道が月明かりの中にまっすぐ伸びていた。
シルヴァーンは街道を低空で飛んだ。木々の梢よりも低く、地面すれすれを滑るように。白銀の鱗が月の光をかすかに反射していたが、その光はすぐに闇に溶けていった。
まっすぐに。チェリのいる方向へ。
* * *
真夜中だった。
宿の部屋で眠っていたチェリが、かすかな音で目を覚ました。
こつ、こつ、こつ。
窓を何かが叩いている。規則的な音ではなかった。何かが窓にぶつかっては離れ、またぶつかるような、不規則な音だった。
ナハヤとガンマも目を覚ましていた。暗い部屋の中で、三人は顔を見合わせた。ディラも身を起こしている。
タウラが音もなくベッドから下りた。剣を手に取り、壁に沿って窓に近づいていく。護衛騎士の動きだった。
タウラが窓の端からそっと外を覗いた。
「……チェリ様」
タウラが振り返った。その顔に、驚きと困惑が混ざっていた。
「シルヴァーンです」
「えっ」
チェリが飛び起きた。窓に駆け寄ると、外にシルヴァーンがいた。小さな翼をぱたぱたと動かして、窓の前で懸命に飛んでいる。爪で窓を引っかいていたのだ。
「シルヴァーン!?」
窓を開けると、シルヴァーンは勢いよく部屋に飛び込んできた。チェリの胸にぶつかるように着地し、きゅいきゅいと甲高く鳴いた。体が冷え切っていた。冬の夜空をずっと飛んできたのだ。
「嘘でしょ……城から、ここまで来たの……?」
チェリはシルヴァーンを抱きしめた。小さな体が震えている。寒さなのか、疲労なのか、それともチェリに会えた安堵なのか。
シルヴァーンはチェリの腕の中でしばらく鳴き続けていたが、やがて落ち着いてきた。ふと顔を上げて、部屋の中を見回した。テーブルの上に果物が置いてあるのを見つけると、チェリの腕からするりと抜け出し、テーブルに飛び乗った。そしてりんごにかじりついた。
もしゃもしゃと音を立てて食べている。ガンマが「腹減ってたのか」と呆れた声を出した。
「多分、今日は何も食べてなかったんじゃないかな……」
ナハヤが言った。チェリは果物を頬張るシルヴァーンを見つめながら、目の奥が熱くなるのを感じた。
「……城では今頃大騒ぎになってるんじゃない?」
ナハヤが冷静に言った。
「大急ぎで城まで手紙を届けさせます」
タウラがすぐに動いた。宿の別の部屋にいる護衛の騎士の一人を起こし、早馬で城に手紙を届ける手配を始めた。
* * *
城では、まさに大騒ぎになっていた。
夜になって鳴き声がやんで静かになったので、使用人がシルヴァーンの様子を見に行ったところ、籠は空で窓が開け放たれていた。報告はすぐにハリュークの執務室に上がった。
シルヴァーンの世話を任されていた使用人が、執務室の床に額をつけていた。
「申し訳ございません……私の不注意です……窓の施錠を確認すべきでした……」
声が震えていた。ハリュークの前で平伏する使用人の背中が、小さく揺れている。
「頭を上げなさい」
ハリュークの声は静かだった。
「竜が窓を開けて出ていくなど、誰にも予測できることではない。お前の落ち度ではない。むしろ夜中にも関わらず部屋を確認してくれたおかげでこれだけ早く発覚したのだ。謝る必要はない。よくやってくれた。もう遅いので、ひとまず下がりなさい」
使用人はおそるおそる顔を上げ、深々と頭を下げてから退室した。
(鍵が掛かっていたのは確かなはずだ。音もなく開けるとは……とすると)
ハリュークは目を閉じて考え込む。
「父上」
ハリュークの正面に立つナテュークの声には緊張があった。
「以前の教団の連中ではないでしょうか。シルヴァーンを狙って——」
「違う」
ハリュークは即答した。
「あの竜は自分で出ていった。連れ去られたのではない」
「なぜそう言い切れるのですか」
ハリュークは答えなかった。しばらくの沈黙の後、ただ一言だけ言った。
「まあ、大丈夫だろう」
ナテュークはそれ以上問い詰めることができなかった。父がこういう言い方をする時は、何を言っても答えは返ってこない。ナテュークが幼い頃からずっとそうだった。
翌朝、早馬が城に到着した。タウラからの手紙には、シルヴァーンが宿に現れたこと、無事であることが簡潔に記されていた。
ハリュークは手紙を読み終えると、机の上に置いた。
「やはりな」
ナテュークに返事を書くよう指示した。
シルヴァーンが窓を開けて飛び出していったらしいこと。そして、シルヴァーンはそのまま一緒に連れていけ、という内容だった。
中央までの残りの行程を、シルヴァーンは馬車の座席の隅で丸くなって過ごすことになった。




