37 試験の準備 竜の籠
秋が深まっていた。
ハリュークの執務室には、机の上に書類が広げられていた。馬車の手配書、宿の予約に関する書簡、中央領までの街道の地図。入学試験に向けた準備は、思いのほかやることが多かった。
「中央まで馬車で十日はかかります。余裕を見て、試験の十三日……十二日前には出発させたほうがよいかと」
ナテュークが書類を指し示しながら言った。秘書として父の隣に立つその姿は、いつも通り落ち着いている。
「十三日も前か。帰りも合わせると長旅だ。途中の宿は」
「街道沿いに三箇所、手配を進めています。子供たちの負担を考えると、一日の移動距離はあまり長くしない方がよいでしょう。中央に着いてから試験までの数日も、宿を取って体を休ませる計画にしています」
ハリュークは頷いた。ナテュークが次の書類を差し出す。
「馬車は二台。三人と荷物、それから同行者の分です。護衛もつけますが、目立ちすぎない人数に抑えます」
「同行者は」
「世話役としてディラを。チェリの身の回りのことに一番慣れていますので」
ハリュークはしばらく考えてから言った。
「ディラの弟が中央の大学にいたな」
「はい。奨学金で通っています」
「試験の前後で、弟に会う時間を取らせてやってもよいだろう」
ナテュークは少し意外そうな顔をしたが、すぐに「分かりました、伝えておきます」と答えた。
「それから、シルヴァーンのことですが」
ナテュークが切り出すと、ハリュークの表情がわずかに変わった。
「どうしますか。連れていきますか」
「連れていかせるわけにはいくまい」
ハリュークは即答した。
「試験会場に子竜を持ち込むことはできないし、宿に置いておくにしても世話をする者が要る。留守番が妥当だろう」
「チェリが納得するでしょうか」
「させるしかあるまい。試験のためだ。仕方ない」
ハリュークはそう言い切ったが、その声にはほんの少しだけ憂いがあった。チェリがシルヴァーンと離れたがらないことは、誰よりも分かっている。
ナテュークはそれ以上は何も言わず、次の議題に移った。
「サジット先生から、三人の成績についてのまとめが届いています」
ナテュークが一通の書類を差し出した。サジットの几帳面な字で、三人それぞれの学力と得意・不得意、試験に向けた所見が記されている。結びの一文はこうだった。
——三名とも十分に合格圏内にあると考えます。
ハリュークはその一文を目で追ってから、書類を机に置いた。表情は変わらなかったが、肩の力がわずかに抜けたように見えた。
ナテュークも、その書類の内容は事前に目を通していた。ガンマとナハヤの名前がそこにあることに、父としての安堵があった。チェリだけではない。自分の甥たちも、同じ試験に向かうのだ。
「宿の手配は明日中に確定させます。馬車の手配書には今日中にサインを」
「分かった」
ハリュークが書類に印を押す。ナテュークがそれを受け取り、次の書類を揃える。事務的なやり取りが淡々と続いていく。
「そして、こちらの件……やっと手配ができました」
ナテュークがやや真剣な面持ちで、ハリュークに書類を差し出した。
* * *
その頃、教室では三人がシルヴァーンの籠を前にして頭を抱えていた。
脱皮を経てひと回り大きくなったシルヴァーンが、籠に収まりきらなくなっていたのだ。尻尾が籠の縁からはみ出し、体を丸めても翼がつかえている。シルヴァーン自身も居心地が悪いのか、しきりに体勢を変えようとしては、きゅいきゅいと不満げな声を上げていた。
「もう無理だな、これ」
ガンマが籠を覗き込んで言った。
「前から持ち手が怪しかったけど、もう大きさ自体が足りてないね」
チェリはシルヴァーンを籠から出してやった。シルヴァーンはチェリの腕の中で体を伸ばし、ようやくくつろいだ様子で目を細めた。脱皮後の新しい鱗が虹色の光沢を帯びて光っている。
「もっと大きな籠を用意しないと。そんな大きい籠ってどこに売ってるのかな」
「道具屋……?何を入れる籠だろう」とナハヤが言った。
「持ち歩く籠の大きさじゃないね」
「特注で作ってもらうしかないか……」
チェリが腕の中のシルヴァーンを見下ろした。もう抱いておくにも相当に重くなっている。椅子に座って膝に乗せるので精一杯だ。一人で持ち上げて歩くのは辛いので、シルヴァーンの入った籠は二人ががりで運んでいた。
城下に籠を編む職人はいるが、竜を入れるための籠など注文を受けたことがあるだろうか。大きさだけでなく、丈夫さも必要だ。シルヴァーンの爪や鱗で簡単に壊れてしまっては困る。
「頑丈な素材で作ってもらわないと。シルヴァーンの爪、結構鋭いし」
ガンマが自分の手の甲を見せた。シルヴァーンに引っかかれた跡がうっすら残っている。
「職人に相談するにしても、大きさをどのくらいにするかだよね。今のシルヴァーンに合わせたら、またすぐ小さくなるかもしれないし」
「成長の速さを考えると、余裕を持った大きさにしておいた方がいいね」
ナハヤが資料をめくった。子竜の成長曲線についての記述を探しているようだったが、すぐには見つからないらしく、眉をひそめている。
三人があれこれ話し合っていると、教室の扉が開いてディラが入ってきた。お茶を運んできたらしい。盆を持ったまま、籠からはみ出したシルヴァーンの尻尾と、チェリの腕の中のシルヴァーンを見て、すぐに状況を察した。
「籠、小さくなってしまいましたか」
「うん。もう入りきらなくて」
「少しお待ちください」
ディラはお茶を置くと、足早に教室を出ていった。しばらくして戻ってきた時、その手には大きな籠を抱えていた。洗濯物を入れるための深い籠で、シルヴァーンの籠よりもずっと大きい。
「ひとまずこれに入れておきましょう。特注の籠ができるまでの間ですが」
「ディラ、ありがとう!」
チェリがシルヴァーンをそっと洗濯籠に入れてみると、十分な大きさがあった。シルヴァーンはくるりと体を回してから、籠の底に落ち着いた。さっきまでの窮屈そうな様子が嘘のように、ゆったりと体を伸ばしている。
「気に入ったみたいだね」
ただ、さすがにこの大きさの籠はテーブルの上には置けなかった。ディラが教室の隅の床に籠を置くと、シルヴァーンは不満も見せずにそのまま丸くなった。
「テーブルの上より安定するかもしれないね。落ちる心配もないし」
ナハヤがそう言うと、ガンマが「重くなってたから、テーブルのほうも限界だったかもな」と頷いた。
チェリは床の籠の中で目を閉じ始めたシルヴァーンを見下ろして、小さく笑った。
「大きくなったなあ」
それは嬉しくもあり、少しだけ寂しくもあった。腕の中にすっぽり収まっていた頃が、もう遠い昔のことのように思える。
窓の外の木々はすっかり紅葉していた。冬が近い。




