31 見送りの朝 いつもの授業
礼儀作法の授業の最終日。
散々叱られ続けた日々だったが、最後の授業の終わりにヴァーシャラは三人を順番に見渡して、静かに言った。
「合格です」
たったそれだけだったが、三人は思わず顔を見合わせた。ガンマが「やった」と小声で言い、ナハヤが目を閉じて息をついた。チェリは何も言えなかったが、胸の中で何かがほぐれるような感覚があった。
* * *
翌朝、ヴァーシャラは南領地へ戻ることになった。
城の正門前に馬車が用意され、おばあさまたち五人とチェリたちが見送りに出た。夏の朝の光が石畳に白く降り注いでいる。
おばあさまたちはヴァーシャラに口々に声をかけていた。「またすぐ来てよ」「手紙は出すからね」「南の料理、今度持ってきてくれないかしら」。ヴァーシャラはそのひとつひとつに短く答えながら、荷物を馬車に積ませていた。
「……それにしても、滞在中についぞあなたたちの旦那様にお目にかかることはありませんでしたが、そんなにお忙しかったのかしら?」
「分かっているでしょう。あの人は苦手なのよ……あなたが」
ネイディーアはため息をつきながら言った。他の四人のおばあさまたちも苦笑している。
全くもう、とつぶやいてからヴァーシャラは城を見上げた。
「見ているのは分かっていますよ。何を隠しているのか知りませんが、あなたが秘密にしたいことまでは分かりませんからね」
「……? 何の話ですか?」
チェリはヴァーシャラとネイディーアを交互に見て、首を傾げた。
「まあ、おいおい分かりますよ。勘ですけど……そうだ、チェリ」
ヴァーシャラがチェリたち三人に向き直った。
「大学に行くなら、南の領主の孫息子からアプローチを受けるかもしれません。今あちらの大学に在学しているので」
チェリは首を傾げた。アプローチ、というのがどういうことなのか、いまいちぴんとこない。
「あの子は女癖が悪いので、気をつけなさい」
「女癖……?」
チェリがきょとんとしていると、ヴァーシャラの視線がガンマとナハヤに移った。二人は揃ってむっとした顔をしていた。ヴァーシャラはそれを見て、口元をわずかに緩めた。
「ふふっ、二人とも、守ってやりなさい」
それを聞いてナハヤはうろたえた。ガンマは無言だったが、まだむっとしたままだった。
「まあ、まずは合格するのが先ですけれど」
ヴァーシャラはそう言って、おばあさまたちに軽く手を振り、馬車に乗り込んだ。扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き始める。
おばあさまたちが揃って手を振った。馬車が城門をくぐり、見えなくなるまで、誰も動かなかった。
「……行ったわね」
エルナダがしみじみと言った。
「また来てくれるかしら」とネイディーアが言うと、リッテが「呼べばすぐ来るだろう。あいつは南の領主の顔を見るよりもこっちに来る方がよっぽど気楽なんだから」と答えた。
「リッテ、その言い方……」
サリアが呆れた声で言う。
「事実でしょう」
チェリはその会話を聞きながら、馬車が消えていった門の方を見ていた。ガンマとナハヤはまだ少しむっとした顔をしている。
(守ってやりなさい、か)
チェリにはまだよく分からなかったが、二人のあの顔を見ていたら、なんだか少し笑えてきた。
* * *
その日の午後から、サジットの授業が再開した。
久しぶりに三人が教室に揃った。シルヴァーンの籠は相変わらず後ろのテーブルの上にある。サジットは黒板に今日の内容を書きながら、三人が席につく様子をちらりと見た。
何かが、少し違った。
うまく言葉にするのは難しいが、三人の座り方が変わっていた。背筋の伸び方、手の置き方、前を向く角度。礼儀作法の授業を受ける前と比べると、自然な形で姿勢が整っている。本人たちはおそらく意識していないだろうが、体に染み込んでいるのが分かった。
サジットは黒板に向きながら、胸が静かに熱くなるのを感じていた。生徒の成長をこの目で見られる。教師をやっていて良かったと思う瞬間があるとすれば、きっとこういう時のことだ。……もっとも、感慨に浸っている時間はない。今日の授業を始めなければ。サジットは気持ちを切り替えて、チョークを置いた。
「では始めましょう。久しぶりですが、続きからやっていきます」
「はい」
三人の返事も、以前より揃っていた。サジットは黒板に向き直りながら、小さく息をついた。
「それから、竜生学の資料をまとめておきました」
「先生がまとめてくれたんですか?」
チェリが顔を上げると、サジットは少し照れくさそうに答えた。
「皆さんが礼儀作法の授業を受けている間、時間があったので大学から竜の資料を色々と送っていただきまして。こちらの図書室の資料よりは詳しい内容になっていると思います」
チェリはそれを聞いて、自然と顔がほころんだ。
「ありがとうございます、先生」
サジットは「お礼を言われるほどのことでは……」と言いかけて、少し間を置いた。それからにこやかな顔で続けた。
「ただ、この後の話を聞けば、お礼を言ったことを後悔するかもしれません」
三人は顔を見合わせた。要領を得ないという顔をしている。
「空いた時間で、今までの授業の分の試験問題を作っていましたから」
沈黙が落ちた。
「……試験」
「今までの授業内容の範囲をちゃんと覚えているか、確かめる試験です」
「今までの授業内容の範囲を……」
チェリが繰り返すと、サジットは変わらずにこやかなままだった。ガンマが「礼儀作法が終わったと思ったら……」と呻く。ナハヤは静かに目を閉じた。
「日程は後ほどお伝えします。では授業を始めましょう」
サジットはそう言ってチョークを手に取った。三人の嘆きを颯爽と受け流し、清々しい笑顔をしている。
(……生徒の悲鳴が聞けるのも、教師をやっていて良かったと思うことの一つかも)
もう夏が来ていた。窓の外には青い空が広がり、木々が青々と茂っている。三人が嘆く声の中、教室を爽やかな風が吹き抜けていった。




