02 春の姫 雪解け水の妖精
春祭の朝。城内はいつもと違う浮き立つような空気に包まれていた。
使用人たちは今日だけは早く仕事を終わらせて祭に出かけてよいと許されているため、朝からそわそわと落ち着かない様子だ。早く仕事を終えてしまおうと廊下を早足で駆ける足音や、楽しそうな笑い声があちこちから聞こえてくる。
中庭の中央には、使用人たちが祭のために何日もかけて作り上げた大きな竜の張り子が置かれていて、今か今かと出番を待つように誇らしげに佇んでいた。
城のあらゆる場所が、春の祝いと喜びに満ちていた。
けれど――
チェリは朝食にも顔を出さず、ベッドの上で転がっていた。
「お嬢さま、今日はお祭りなんですから、そろそろお布団から出ましょう」
カーテンを開けながら、メイドのディラが声をかける。
ベッドの中からひょこっと顔を出したチェリは、もぞもぞと枕に顔をうずめた。
「えぇ~……行かなくてもよくない? ここにいるだけで、十分お祝いしてるよ。ね?」
ディラはくすっと笑った。
「お祝いする気持ちと、姿を見せることは別なんですよ。今日は西の民みんなが、お嬢さまの笑顔を楽しみにしてるんです」
「じゃあ、ディラが笑っておいてよ。いつも明るくて、元気で、火魔法も使えて、みんなの人気者だしさ」
布団の中から顔だけを出したチェリが、わざと無邪気な声で言う。
その口調には甘えがにじんでいた。
ディラはくすっと笑いながら、首を振った。
「お嬢さま……“雪解け水の妖精”は、水に適した魔力を持った娘が選ばれるって、ご存じでしょう? 私は火の魔力寄りですから、そもそも役割に合わないんです」
「うん、知ってる。でもさ、もしかしたら、ディラが代わってくれたりしないかな~って」
チェリは枕に頬を押しつけながら、気だるげにため息をついた。
「だって、春祭になると、毎年必ず私が選ばれるんだよ? 六歳のときからずっとってさ……」
「それだけ、お嬢さまの魔力が“ふさわしい”ということですよ。西の地では、同世代の中でも一番だって、みんな言ってます」
「でもさ……ガンマに『雪解け水の妖精~(笑)』ってからかわれるのが、ほんっとうに嫌なの!」
ディラは吹き出しそうになりながらも、やさしく微笑んだ。
「……ああ、それは……ガンマ様なら、確かに言いそうですね」
ディラはやんわり笑いながら、掛け布団をめくろうとするが、チェリは布団ごと寝返りを打って抵抗する。
それを見て、ディラは息をつき、ベッドのそばに腰を下ろした。
「ドレスを着せられて、髪をぐりぐり巻かれて、頭に花まで乗せられて……変な椅子に座って、にこにこして手を振るの。みんなが“姫さまだ!”って喜ぶけど……」
チェリは窓の外に目をやり、ぽつりと続ける。
「……でも、あれ、私じゃなくてもいいんじゃない? “ハリュークの孫”なら、誰でも同じように見られる気がする。だったら私である意味って、どこにあるんだろうね」
ディラはその横顔を見つめ、少しの間黙ってから、ゆっくりと言った。
「でも、お嬢さまじゃなきゃだめだって、私は思いますけどね」
チェリは少し黙り、目を細めて笑った。
「……ディラは優しいから、そう言ってくれるんでしょ」
「ええ、優しいですよ。でも、本当です」
二人は目を合わせて、少し照れくさそうに笑い合った。
ディラは18歳。平民出身だが火魔法の才があり、それを見込まれて城に仕えるようになった。
今では給金で家族を養い、弟のひとりは下の学校から上の学校へ進学し、さらに奨学金を貰って中央領の大学に入学したので最近は喜びにあふれている。
この奨学金制度も、ハリュークが「才ある者に道を開け」との方針で整えたものだった。
彼女にとってハリュークは大恩人であり、その孫であるチェリにも深い忠誠と親しみを持って仕えている。
「じゃあこうしましょう。今から準備しろとは言いません。出番は夜なんですから、夕方までお好きに過ごされてください。日が落ちるまでですよ?」
「やったー!ディラちゃん、ありがとう!私のしてほしいことがよく分かってる〜」
「もー、からかわないでください。大事なお役目ですから、休んでちゃんとやる気を出してくださいね」
「はいはい、わかりました〜。あとでちゃんと着替えます」
チェリが手をひらひらさせるのを見て、ディラは満足げに微笑み、静かに部屋を後にした。
* * *
そのすぐ後、チェリは昨晩持ち出した本を持って、そっと部屋を抜け出していた。
目指すのは、城の中でもいちばん高い場所――尖塔の最上階。
螺旋階段を登るほどに、祭りの音は遠ざかっていく。
ここは彼女の隠れ場所だった。
小さな扉を開けると、朝の光が差し込んでいた。
風の音が心地よい、静かな小部屋。
窓から見えるのは、西の空と、遠くに広がる街の景色。
広場には舞台が整い、幟が揺れていた。
人々の笑い声、太鼓の音、はためく布。春のすべてがそこにあった。
けれど、そこに自分の居場所があるとは、どうしても思えなかった。
チェリは本を開いた。
表紙には『春季竜群行動と伝承記録』とある。
……昨日、空を飛んでいた竜たち。
春になれば竜が飛ぶのは、当たり前のことだった。
でも、なんで飛ぶのかは誰も知らない。
「……竜にも、何か事情があるのかな」
私が英雄の孫に生まれたから、着飾って祭の舞台の高座へ座らされるように。
「嫌でもそうしなければいけないんだったら、可哀想……」
ぽつりと独り言のように呟いたその時だった。
「なるほど、尖塔で勉強とは。……おお、いい風だな」
低く、響くような声が背後から届いた。
振り返ると、そこには
西の領主、ハリュークが立っていた。
戦を収め、五人の妻を娶り、語り継がれる英雄。
チェリにとっては――血のつながった祖父であり、最も苦手に感じる人物だった。
チェリは肩をすくめ、本を閉じた。
「……何か、用が?」
「いや。なんとなく来てみただけだ」
ハリュークは窓辺まで歩み寄ると、外を見下ろしながら、ひとつ息をついた。
「風がいい。……竜が去ったあとは、すぐに静かになる。今日の風も、そう長くは吹かんだろうな」
「……うん」
チェリは再び外を見た。街の広場には、祭の準備を終えた人々が続々と集まっていた。
幟が揺れ、音楽が響き、笑い声が小さく届く。
「祭には行かないのか?昼には屋台は開くが」
「人が多いところは、苦手なの」
「そうか。……昔は“馬に乗って街の通りを走りたい”と、泣いて駄々をこねていたくせに」
「うっ、それは……!」
チェリは思わず顔を赤らめて、祖父を見上げた。
「あれは、ほんとに子どもだっただけだから! 忘れてよ、もう!」
ハリュークは小さく笑い、わざとらしく視線を外す。
「そうだったかもしれんな」
そして、ふと声の調子を変えた。
「……それで、チェリ」
ゆっくりと、しかし確かな目で、彼女の横顔を捉える。
「おまえ、何か――隠していることがあるんじゃないか?」
チェリは息を飲んだ。
心の奥をのぞかれたようなその声に、咄嗟の返事が出てこなかった。




