01 竜の渡り 竜の卵
この国は中央領を要に、東西南北の四つの広大な領地に分かれている。
中央領には王宮と学術機関が置かれ、象徴的な権威として存在しているが、実質的な支配は各地の領主たちが担っていた。
それぞれの領地は風土も文化も異なり、時に連携し、時に火花を散らしながらも、長らく均衡を保ってきた。
西の地、バイフートを治めるのは、ハリューク。
五人の妻を持ち、剣と政で名を馳せ、幾度もの戦乱を終息へ導き、領地に新しい産業を興した「西の英雄」。
その名を口にすれば子どもは泣きやみ、悪人や魔物までが逃げ出す――西の領地ではそんな伝説じみた存在になっている。
そのハリュークの住む西領主の城には、彼とその妻たち、そして孫のチェリとその両親が暮らしている。
古いが重厚な石造りの城は、広く、静かで、威厳のような空気を纏っていた。
正面の入口から城に入ると天井の高いホールにハリュークの肖像画が飾られており、ここの来訪者は大きなハリュークに見下ろされて出迎えられる。
ここを通る使用人は必ず肖像画に一礼をして通り過ぎていく。特に決まったルールではなく、みな自然にそうしている。
(うう……落ち着かない)
チェリが顔を上げると肖像画の祖父、ハリュークがこちらを見つめていた。
「目が合っちゃうからなのかなあ……」
チェリにとっては、生まれ育った家でありながら、肖像画の飾られているホールは少し息が詰まる場所でもあった。
尊敬しろと言われているような空気が、無言で押し寄せてくるのが、正直うっとうしかった。
だからチェリは視線を切るようにさっと身を翻し、音を立てないように気をつけながらも、どこか急くような足取りでホールを後にした。
今日は春祭を翌日に控え、親族が城に集まる日だ。
いつもは別の街に住んでいるチェリの従兄弟たちも、それぞれの親と共に祭が終わるまで滞在する。
そのせいで城内は普段よりも騒がしい。
ここ数日、「マナの風」が吹きはじめていた。
春分を越え、森の匂いも空の色も、どこか弾むような雰囲気に変わってきている。
そろそろ竜たちが現れる――誰からともなく、そんな期待が城に満ちていた。
毎年、竜の群れがこの国の西から東へ飛行するのを人々は「竜の渡り」と呼んでいた。
春の空に現れ、舞い、去っていくその一連の流れを見届けてから、春祭を行うのがこの地の風習だった。
竜は祝祭の予兆。空を駆けるその姿こそが、季節の始まりを告げる鐘のようなものだった。
チェリは早朝、城にそびえる尖塔の最上階の小部屋にいた。
人目につかず、風の音がよく聞こえる、彼女のお気に入りの場所。
塔の窓からは西の空がよく見えた。
竜たちが、空を舞っていた。
赤、青、金、翡翠――色とりどりの鱗が、陽光を浴びてきらめきながら、西の空から東へと流れていく。
風を巻き、うねりながら、いくつもの魔力の軌跡を描いて、この西の地から遠ざかっていく。そして三日もあれば竜たちは東の地へ辿り着くだろう。
今飛んでいるのは第一陣の竜たちで、その翌日にはもっとたくさんの竜が連なるように西から東へと飛んでいくというのが毎年の恒例となっている。
春になれば竜が飛んでくるのは、当たり前のことだ。
西から東へ、「マナの風」に乗って移動していく。それが「竜の渡り」だと、そう教わってきた。
けれど――と、チェリは思った。
どうして、竜は春に東へ飛んでいくんだろう?
そういう本能だから?習性だから?
でも、それだけじゃ説明できないような何かが、あの飛び方にはある気がした。
気づけば、じっと空を見つめていた。
理由もなく、でも目を離せない。胸の奥が、なにかに触れてざわめいているような気がしていた。
「やっぱりここにいたんだ」
静かな声に振り向くと、ナハヤが立っていた。
ナハヤはチェリより一歳年上の従兄で、物静かで賢そうな眼鏡の少年だった。
春祭に集まる領主一族の中では一番か二番くらいにチェリと仲が良い。
読書好きのインドア派なのに、なぜかチェリの冒険にはよく付き合ってくれる。
「久しぶり!もう着いたの?早くない?」
チェリは嬉しそうにナハヤに駆け寄った。
「なんだかうちの親は親族の中で一番乗りに挨拶したいみたいで」
「ふーん。あんまり早いのも迷惑だと思うんだけど…」
今はまだ朝焼けが空に残るほど早い時間帯だった。
ナハヤは本を小脇に抱えたまま、窓の外を見ている。
空には竜の渡りの軌跡がわずかに残っていた。
「……きれいだよね」
「うん。でも、なんか……不思議な感じがする」
チェリがぼんやりと空を見つめながらつぶやくと、それを見たナハヤはふっと顔色を変えた。
「あっ、ごめん。竜が、まだ怖いの?」
チェリが幼い頃、空を飛んで竜に襲われたことは、親族の間ではよく知られている。
「え? いや、そういうんじゃないけど……」
思わぬ方向から返された言葉に、チェリは少し困ったように笑った。
「目の前にいるならともかく、あんなに遠くを飛んでるなら全然平気」
「中庭の竜の張り子は大丈夫?」
「うーん、作り物だってわかってるけど……あれはちょっと怖いかも」
城の中庭には、春祭のために作られた竜の張り子が飾られている。
領主の名で祭に出すものなので恥ずかしい出来にはならないよう、使用人たちは気合を入れて作っていた。
そのせいか、なかなかリアルな姿になっている。
「まあでも、竜を怖がってたら西領地ではやっていけないよね。毎年こうして竜を見てるけど、ほんとに大丈夫だよ」
苦笑いをしながらチェリは言った。
遠くの空を飛ぶ竜を見ていると、確かに胸の奥がざわつくような感覚がある。
けれど、それは恐怖とは少し違う気がした。
「そっか。てっきり、まだ引きずってるのかと思って……」
ナハヤは気まずそうに目を伏せる。
「ううん、気にしないで。悪気があったわけじゃないし」
チェリはそう言って、小さく肩をすくめた。
空に舞う竜の姿は、今年も速く、美しい。
あの竜達の渡りの先に何があるのか、もっと知りたいと思った。
* * *
午後になると、親族が次々に到着して城の中はますます慌ただしくなっていた。
さらに大人たちは各々が春祭の準備に追われ、誰がどこにいるのかもわからないほど騒がしい。
その喧騒のすき間を見計らって、動く小さな影が三つあった。
「今しかねえな」
そう言って、ガンマは裏口から外に出る。
チェリもすぐにその意味を悟って、黙って後を追った。
ガンマはチェリと仲の良い同い年の従兄で、元気で直感派。
剣の稽古が得意で勉強は苦手、でも妙なところで鋭くて、時々大人を驚かせるようなことを言う。
そしてなにより、森を探検するのが好きだった。
城にやって来た時はいつも城の裏手の森に行こうとする。
「また勝手に抜け出して……」とぼやきながら、ナハヤもついて来る。
これが三人が集まった時のお決まりのパターンになっていた。
三人は素早く森へと入りこんだ。
その森は祖父――西領主ハリュークの城の敷地の一部で、祖父は孫たちの探検を「ダンジョンもないし、危険な魔獣もいない」と黙って見逃してくれている。
木々の葉が風の音をやわらげ、鳥の声と足音だけが耳に残る。
チェリはその静けさに、ようやく深呼吸ができる気がしていた。
しばらく歩いた先の斜面で、チェリがふと立ち止まった。
「……あれ、なに?」
岩と岩の間に、丸い物体が挟まっていた。
人の頭ほどの大きさ、つやのある殻、淡い模様、わずかに魔力の気配を帯びている。
「竜の卵……だよな、これ」
ガンマが低く声を漏らす。
「……お、親の竜が近くにいるの!?」
チェリはおびえたように周囲を見回した。
「基本的に、竜は卵を産みっぱなしにするらしいから、親竜はいないと思うよ」
ナハヤは冷静な口調で答える。
「じゃあ、今朝、たまたま竜が落としていったとか……?」
「まさか。渡りの途中で卵を産むなんて話、聞いたことないよ。もっと前から、ここにあったんじゃないかな」
思いつきをあっさりと否定され、チェリは少し不満そうに頬をふくらませた。
「……だって、竜のことなんか知らないし……」
言いながら、チェリはふと、幼い頃に竜に襲われたあの日のことを思い出していた。
あのとき竜に襲われたのに、自分は竜のことを何も知らない。考えてみれば、ちゃんと調べてみてもよかったのかもしれない、とチェリは思った。
「そもそも、こんな街に近い所で竜の卵が見つかったことはないはず」
「そんなに珍しいんだ」
「すげー!大発見じゃん!」
ガンマは興奮ぎみだが、ナハヤのほうは冷静に卵を観察していた。
「まだ発光してない。孵化までは時間があると思う」
「光るの!?」
チェリとガンマは同時に叫んだ。
「本で読んだことある」
二人の勢いに押され気味になりながら、ナハヤは答えた。
「えー!光るとこ見たい!」「見たいよな!」「まあ、興味あるよね」
三人はそれぞれ孵化への期待を膨らませる。
チェリはそっと指先で卵に触れてみた。
表面はほんのりと温かく、わずかに魔力の波動も感じられる。
それは、あの日に感じた竜の魔力とどこか似ていた。
「……卵は、怖くないな」
チェリは小さくつぶやいた。
ガンマも恐る恐る手を伸ばして卵に触れた。
ナハヤは警戒して卵には触れなかった。
「持って帰れないかな……」
岩と卵の間に指を差し込もうとしたが、卵はぴたりと岩に挟まっていて、指が入るような隙間はなかった。
とても動かせそうにはない。
「無理に取ろうとしたら、壊れるかもな」
ガンマの言葉に、チェリは小さくうなずく。
「じゃあ、また来れるように目印をつけとこう。この場所。孵りそうな頃にまた来よう!」
チェリはそう言うと、ポケットからハンカチを取り出した。
淡い水色で、隅には自分の名前の刺繍が入っている。
彼女はそれを両手で包むように持ち、目を閉じた。
一瞬、空気が静かになったかと思うと、布がふわりと揺れて淡く光った。
ごく微細な魔力をしみこませた、簡易的な術だ。
「こうすれば、風に飛ばされたりはしないはず」
そう言って、近くの低い枝にそれを結びつけた。
ただの布にしか見えないが、触れれば微かに魔力の気配がある。
チェリにとっては、それがなにより確かな目印だった。
「お前、そういうのもできるんだな……相変わらず、すげえ」
ガンマが素直に感心して言い、ナハヤは静かにうなずいた。
「竜の卵が相当珍しいんなら、大人に知られたら多分大騒ぎになる。これは三人だけの秘密。分かった?」
「おう」「うん」
チェリの念押しに、ガンマとナハヤは頷いた。
三人は最後にもう一度、卵とその周囲を見回して、森を後にした。
その日の夕食の席――祭の前日ということで、晩餐会のような賑わいで親族たちがたくさん集まっていたが、チェリたち三人は今日見つけた卵のことは誰にも話さなかった。
祖父にも、大人たちにも。
三人だけの、小さな秘密。
その夜。
チェリはベッドの中でずっと、あの卵のぬくもりと幼い頃の空を駆ける竜の姿を交互に思い浮かべていた。
チェリはそっと寝室を抜け出して城の図書室に忍び込み、古い竜の本を探して、持ち出した。
どうして竜は春になったら渡りをするのだろう。
少しくらい、竜のことを調べておいてもいいかもしれない。チェリはそんな気持ちだったが、ベッドに戻ると眠気に勝てず、本を抱いたまま眠ってしまった。




