00 空の覇者 竜の領分
竜は、大きい。
竜は、こわい。
私――チェリが初めてそう実感したのは、六歳のことだった。魔法でひとり、空を飛んでいたときのことだ。
魔法は、言葉を覚えるより前から私の手の中にあった。
炎をともすのも、風を操るのも、水を浮かせるのも、息をするようにできた。
これだけ幼い頃から魔法を操れるのは珍しいことらしく、私は周りの大人たちから魔法の天才と呼ばれていた。
幼かった私はその言葉を疑いもせず、正直な所かなり調子に乗っていたのだと思う。
英雄の孫で天才のお姫様――そんなふうに持ち上げられ、すっかりその気になっていた。
そう、あの事件の原因は間違いなく、幼い私の慢心だった。
ある日、風魔法の力の向きを変えたら、ふわりと体が床から離れた。それが面白くて、もっと高くもっと遠くと風を強めていった。
住んでいた城の尖塔の最上階の窓から飛び出し、私は鳥のように西領地の首都の空を舞った。
下を見ると、白い石造りの整然とした街並み。見上げれば雲ひとつない青空。
風は私の意志に従い、魔力は軽やかに空を切っていた。
けれど突然その風を引き裂くように、禍々しい魔力が勢いよくぶつかってきたのだ。
何が近づいてきたのかに気付くよりも早く、私は強い力で弾き飛ばされた。
とっさに風の魔法で姿勢を整えられたが、視界の端に巨大な影が迫ってくる。鋭く、金属のように光る翼が目に映った。
今まで感じたことのない、異質で強い魔力の威圧に、体が硬直する。
――竜だった。
いつもは空の彼方に鱗をきらめかせて飛ぶ姿を遠く見るだけの、ただの風景だったはずの竜。
その竜が、今、すぐ目の前にいる。銀と黒の鱗に殺気をまとい、こちらを睨んでいた。
空を裂くような咆哮。目が合っただけで心臓が凍りついた。
竜は、明らかに怒っていた。大きく翼を広げ、鱗の隙間に魔力を走らせながら、宙に魔法陣を浮かび上がらせる。
次の瞬間、炎の魔法が吹き出した。
放たれた魔法は当たらなかったが、炎の熱気が肌をかすめた。背筋に冷たいものが走る。
どうして、どうして。
私はただ、空を飛んでいただけで誰にも迷惑なんてかけてないのに。
逃げるために何度も何度も魔法を繰り出そうとした。けれど、魔力がうまく通らない。
魔法の制御を失い落下していく私に向かって、竜はどんどん加速して距離を詰めてくる。
竜の咆哮に私はすくみ上がり、魔力はさらに指先から逃げていった。
落ちる――
今、私がいるのは街の上空、首都の中央広場の真上だ。
迫る石畳が視界を埋める。
私は目を閉じた。
――その瞬間だった。
「下がれ!!」
雷のような声とともに、強烈な魔力の奔流が吹き荒れた。
目を開けると、そこにはお祖父様――ハリュークがいた。
重厚な魔力をまとい、落ちてきた私を魔法で減速させて左手で受け止めていた。右手には剣が握られている。
私を地面に下ろしたお祖父様は翻したマントで私の体を隠した。
竜は空を旋回し、こちらに向かってこようとしていた。
だが次の瞬間、お祖父様の放った魔法の一閃が竜の翼をかすめた。雷が炸裂し、竜は大きく羽ばたきながら退いていった。
竜は傷を負ったわけではない。ただ、その魔力に気圧されて逃げたのだ。
騒ぎを聞きつけた街の人々が集まってくる。
竜が街まで飛んできて魔法を放つのは異常事態だ。誰かが空を飛び、竜を呼んでしまったのは明らかだった。
普通ならば、その者は竜に殺されているはず――だが、そうはならなかった。
「人が竜を退けた。あり得ない」
「奇跡だ」
「一体誰…あっ、西の英雄!?」
「さすが英雄!」
「ハリューク様!」
「さすが領主様だ!」
「西の英雄ばんざい!」
お祖父様を称賛する声があちこちから聞こえてきた。
けれど、お祖父様は――こういう時にいつも領民の前で振りまいている、私の知っているあの笑顔を浮かべてはいなかった。
ただ、私の顔を見つめながら眉間に深いしわを刻んで、険しい顔をしていた。
そして静かに私を抱き上げると、お祖父様は近くに停めてあった馬車にそっと乗せてくれた。
車内には見知った使用人がいて、「怖かったでしょう姫様」と私を優しく抱きしめてくれた。
お祖父様は御者に一言二言告げると、すぐに広場の方へと戻っていった。どうやら、事後の処理のためにその場に留まるようだった。
お祖父様が戻ってきたことで広場にはひときわ大きな歓声が響いている。
「英雄、ばんざい!」という声が再び飛び交う中、ふとある言葉が耳に入ってきた。
――まぬけなキュッポーのようにならなくて良かった!
聞き慣れないその言葉に、私は使用人に「まぬけなキュッポーって何?」と尋ねた。
しかし、使用人は少し困ったように眉をひそめ「申し訳ありません、私の一存ではお答えはできまません。旦那様に了解を得なければ……」と返すだけだった。
やがて馬車は、静かに城へ向けて走り出した。
私は揺れる馬車の窓に張りつき、お祖父様を探した。
けれど、嬉しそうに駆け寄ってくる街の人々に囲まれてしまって、お祖父様の姿は見つけられなかった。
隣に座る使用人の困った顔と、さっきまでのお祖父様の険しい顔を思い出すと、私は大変なことをしてしまったのかもしれないと少し怖くなった。
城に戻るとお父様とお母様、お兄様たちは既に事情を知っていたのか、優しく慰めてくれた。
でも、とても居心地が悪かった。
その夜、私は城の執務室に一人で呼び出され、お祖父様に説教を受けることになった。
家庭教師に叱られる時のように厳しい口調を覚悟していたが、お祖父様には昼間に竜を退けたあの激しさはどこにもなく、落ち着いた声で静かに私に語りかけてきた。
「間に合ってよかった。尖塔の窓からお前が飛び出したのを、たまたま見ていた者がいてな。すぐに知らせてくれたのだ」
私は、お祖父様と目を合わせることができず、黙ったままうつむいていた。
「空は、竜のものだ」
お祖父様は無言の私に向けてゆっくりと諭すように語りかけてきた。
「竜は、空を自分たちの縄張りだと認識している。鳥や小さな魔物などは見逃すが、人間ほどの大きさで空を飛ぶ者は敵とみなす。魔力を帯びていればなおさら怒り、攻撃してくる。群れの仲間も集まってきて、相手が地に落ちて動かなくなるまで徹底的に痛めつける。そういう存在だ」
私は何も言えなかった。
ただ、悔しかった。なぜそんな理不尽に襲われなきゃいけないの?
空を飛ぶ魔法があるのに、飛んじゃいけないなんて、そんなの変だ。
「私、飛びたかっただけなのに、なんで……」
そう言った時、祖父は少し目を伏せた。
そして、まっすぐにこちらを見て、静かに言った。
「理屈ではないのだ。竜には勝てん。だが領分を侵さなければ何もしてこない。それだけのことだ。これからは絶対に空は飛ぶな。竜を倒せると思うな。私も今日はたまたま追い返せたというだけだ。勝ててはいない」
私はその話を聞きながら顔を伏せてしまい、お祖父様の目を見返せなかった。
「今日はそれだけだ。もう部屋に戻っていい」
お祖父様は話を打ち切ろうとしたが、私はなんとか顔を上げ、言葉を振り絞って尋ねた。
「あ、あの……お祖父様……まぬけなキュッポーって、なんですか?」
お祖父様は一瞬、目を見開き、驚いた表情を見せた。
「そうか……お前は知らなかったのか」
まぬけなキュッポーとは、魔法の風船で空を飛んだキュッポーという名の若者が、竜に襲われて墜落死するというわらべ歌だった。
西領地では誰もが幼い頃に耳にし、空を飛ぶと竜に襲われるという危険を知るきっかけになる有名な歌だ。
しかし、その内容が「空を飛んで落ちて死んだ」という刺激の強い歌詞で、平民の使う少々下品なスラングを含んでいたため、領主の孫娘である幼い私に聞かせるのは教育に宜しくないということで、誰も私の前では歌わなかったようだった。
歌の説明をしたお祖父様は私を部屋に返した。その後はお父様を呼んで何かを話し合った様子だった。
翌日、お祖父様は以前と変わらず優しかった。
むしろ以前よりも確実に甘くなった。
西領地では誰もが知っている常識を、私だけが知らなかったことが、お祖父様には大きな衝撃だったのだと思う。
以来、お父様やお母様と街に出かけることが増え、兄弟や従兄弟たちと城の裏の森へ遊びに行っても、以前のように怒られることはなくなった。
城の図書室にも、市井の物語や昔話の描かれた書物が増えていた。
でも、私はあの時から決定的に何かが変わってしまった。
お祖父様を見るたびに、あの時の苦しそうな顔を思い出す。
なぜ、竜を撃退したのに、まるで敗北したかのような表情をしていたのか。
私の軽率な行動のせいで、いつも堂々としているお祖父様に見たことのない顔をさせてしまった。
誰からも讃えられる英雄に傷をつけてしまったような後ろめたさを感じて、どうしてもお祖父様から逃げたくなってしまう。
天才の姫様と持てはやされていた自分が恥ずかしくなってきたのも、この頃だ。
私は少し魔法が使えるだけの子供にすぎない。
突然のトラブルを前にすれば、何もできず、なすすべもなく呑み込まれてしまう――その現実をようやく思い知ったのだ。
そして、その現実を突きつけてきた存在を、私は忘れられずにいる。
竜は、大きい。
竜は、こわい。
そして――とても、美しかった。
今でも忘れられない。
空を飛んだときに見た、あの青さと、風の感触と、竜の大きな影。
あれ以来、私は魔法で空を飛んではいない。
けれど、空に竜の姿を見つけるといつも目で追わずにはいられなくなってしまった。




