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27 聖印 手を切った男

 チェリの手がすぐに枕元を探った。警報を鳴らす魔道具に指が触れた瞬間、焦りのせいで手元が狂った。魔道具が床に転がり落ちる音がした。


 人影は動かなかった。


 「……拾わなくていいですよ。今夜は、シルヴァーン様を奪いに来たわけではないので」


 聞き覚えのある声だった。チェリはゆっくりとベッドから身を起こした。


 「アリエ、先生……」


 うっすらと部屋の明かりがついた。立っているのは確かにアリエだった。

 アリエが右手を伸ばして部屋の明かりをつけたようだった。


 だがアリエの様子がおかしかった。息が荒い。立っているのがやっとのように見える。


 「どうやって警備を……」


 「それはまあ、いろいろと」


 アリエは薄く笑ったが、すぐに表情が歪んだ。チェリはそこでようやく気づいた。


 左腕がなかった。


 二の腕の途中から、ない。切断した箇所には布が巻き付けられていたが、その布に血が滲んでいた。息が荒いのは、明らかにその傷のせいだった。


 「……っ、先生、その腕……!」


 「文字通り、奴らとは手を切ってきました」


 チェリは言葉が出なかった。アリエは淡々と続ける。


 「左腕で失敗を贖った。あいつらは今頃、私が生きているとは思っていないでしょう」


 「その傷、早く手当てをしないと……!」


 「治癒魔術の心得があります。止血はできている。心配には及びません」


 アリエは壁に背を預けて、ゆっくりと息をついた。それから、シルヴァーンの籠に目をやった。シルヴァーンは籠の縁に前足をかけて、アリエをじっと見つめている。唸り声はない。ただ、静かに見ている。


 「今夜チェリ様にお伝えしたかったのは、これだけです」


 アリエは静かに話し始めた。


 「思うに、信仰というのは、誰かが切り取ってパッケージングしたものをそのまま受け取ることではないのですよ。自分の目で世界を見て、自分なりの信仰の形を見つけなければいけない。知性や行動力が、そうするに満たない者にとっては酷な話かもしれませんが」


 「何を言ってるの……?」


 チェリは困惑してアリエの顔を見つめた。教壇に立っていた時の穏やかな笑顔とは違う。何かを確かめるような、静かな目をしていた。


 「あの晩、シルヴァーン様から左腕に聖印を頂いた時に、はっきりと感じました。『蒼眼の竜』には、私が求めていた信仰はないと」


 「……聖印」


 チェリの声に、不快感がにじんだ。シルヴァーンが噛みついた傷跡を、そう呼ぶのか。


 アリエはチェリの表情を見て、小さく頷いた。


 「不快に思われるのは当然です。ただ事実として、竜に傷つけられて生きている者はいない」


 それを聞いてチェリは幼い頃のあの記憶を、竜を難なく撃退したお祖父様が街の人々に賞賛されている姿を思い出していた。竜に出会って無事でいるというのは、本当に奇跡なのだろう。竜の子であるシルヴァーンと一緒に暮らすチェリにはその実感はないが。


「竜につけられた傷跡は、奴らにとって非常に貴重なものなのです。だから聖印のある左腕を置いていけと言われました」


 アリエはもう存在しない左腕に視線を向ける。相変わらず苦しそうに息をしていた。


「誘拐が成功していれば、私を生かしたまま聖印持ちとして利用するつもりだったでしょう。失敗した私を生かすつもりはなかったので、聖印だけを欲しがったわけです」


 アリエは少し間を置いてから、口元に微かな笑みを浮かべた。


 「奴らが私の左腕を未来永劫崇めることになると思うと、本当に滑稽です。私の腕ですよ?そんなものには何も宿ってはいないのに」


 アリエは含み笑いを抑えられずに、ハハッという声を漏らした。


 チェリは何も言えなかった。話の内容が、頭の中でうまく整理できない。アリエが危険を冒してまで忍び込んでしたかった話だとは思えない。


 「本当に聖なる者は、シルヴァーン様と、シルヴァーン様に選ばれたチェリ様、貴方です。あの晩に理解したのです」


 アリエはそう言って、右手をチェリに向けて差し出した。手の甲に、薄く残る傷跡がある。最初の日、シルヴァーンの牙がかすめた時の傷だった。


 「チェリ様とシルヴァーン様がこれからやろうとすることの邪魔はしません。いえ、邪魔する者がいたら私が排除しましょう。この傷にかけて」


 チェリはアリエの顔を見た。アリエの目は真っすぐだった。嘘をついているようには見えない。だからといって、素直に信じられるかというと、それもよく分からない。


 チェリが訳も分からず、ぽかんとしている間に、アリエは窓へと向かった。


 「お邪魔しました、チェリ様」


 穏やかな一礼。それから、アリエは夜の闇の中に消えた。


 チェリはしばらく、開け放たれた窓を見つめていた。

 シルヴァーンも窓の外を見つめていたが、突然振り向き短く鳴いた。


 その時、部屋の扉が勢いよく開いた。


 「逃げられたか」


 ハリュークだった。チェリは振り返ったが、驚く気力もなかった。


 「……お祖父様、なんで」


 「気配がした」


 ハリュークは部屋に入り、開いた窓の外を一瞥してから、チェリに目を向けた。


 「怪我は」


 「ない」


 「そうか」


 それだけ言って、ハリュークはチェリの隣に立った。二人でしばらく、窓の外の暗闇を見ていた。


 「……あの人、もう来ないと思う」


 チェリがぽつりと言うと、ハリュークは少し間を置いてから答えた。


 「話をしておきたかった」


 チェリはその返答に驚いたが、それ以上は何も言わなかった。


 開け放たれた窓から入ってきた夜風が、カーテンを揺らした。 

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