25 逃げる影 侵入者
人影は動かなかった。
チェリは扉を開けたまま、その場に立ち尽くしていた。逃げようとしても、足が動かない。
「……驚かせてしまいましたね」
聞き覚えのある声だった。
穏やかな、落ち着いた声。昼間、教壇に立っていた時と同じ声。
幽霊ではない。
「アリエ、先生……?」
人影がゆっくりと窓から離れた。月明かりの中に、アリエの顔が浮かび上がる。穏やかな笑顔だった。昼間と変わらない、あの笑顔。
「怖がらなくていいですよ、チェリ様。私はただ……この子をお迎えに来ただけです」
アリエの視線がシルヴァーンに向いた。その目が、昼間とは違う光を帯びている。
「神である蒼眼の竜は、相応しい場所におられるべきです。我らの元こそが、この子に相応しい」
チェリはシルヴァーンをきつく抱きしめた。
「何を言って……来ないで!」
「この子は神です。子供が籠に入れてペットのように扱うものではない」
アリエはゆっくりと近づいてきた。懐から、折り畳まれた布を取り出す。薄い灰色の、何の変哲もない布に見えた。
「シルヴァーン……!」
チェリが声を上げた瞬間、アリエが布を広げてシルヴァーンに被せようとした。
「ガウッ!!」
シルヴァーンが爪を立てて布を引き裂こうとした。鋭い爪が何度も布に食い込む。だが布は破れなかった。シルヴァーンの爪を受けても、形を保ったままだ。
(破れない……!)
チェリが魔法を使おうとした瞬間、シルヴァーンが体ごとアリエの左腕に噛みついた。
「っ……!!」
アリエが短く声を上げた。シルヴァーンの牙が手首から肘にかけて深く食い込み、鮮血が滴る。布がはらりと床に落ちた。
アリエは左腕からの流血を見てはっとしたような顔をした。
穏やかな笑顔が消えていた。その目には、驚きとも痛みともつかない、奇妙な表情が浮かんでいた。まるで夢から覚めたような。
「チェリ!!」
扉が勢いよく開いた。
ハリュナルが飛び込んできた。廊下に出てからも照明がいつもより暗いのが気になって、引き返してきたのだ。
「兄様……!!」
「下がれ!!」
ハリュナルの右手に、白い光が集まった。
鋭い冷気がチェリの頬を撫でた次の瞬間、鋭い氷の魔法の刃がアリエに向かって飛んだ。
アリエは横に跳んで躱した。着地した足元に氷が広がる。
もう一撃。
アリエは窓に向かって走った。鍵を外す間もなく、体ごとぶつかって窓を開け放つ。
「待て!!」
ハリュナルが叫んだが、アリエはすでに窓の外に消えていた。
* * *
ナツァークが使用人を何人か連れて部屋に駆け込んできたのは、それからすぐのことだった。
「何があった。ハリュナルが人を呼んでこいと言って、突然チェリの部屋に戻って……」
「侵入者だ」
ハリュナルが吐き捨てるように言った。
「!? ……チェリ、怪我は?」
ナツァークはチェリに駆け寄って無事を確かめる。
「ない。大丈夫」
チェリはシルヴァーンを抱きしめたまま答えた。シルヴァーンはまだ興奮しているのか、体が小刻みに震えている。
「顔は見えたか」とナツァークがハリュナルに聞いた。
「暗くて……はっきり見えなかった」
二人がチェリを見た。
「……アリエ先生だった」
チェリが言うと、ハリュナルの表情が変わった。
「アリエが……」
ナツァークは黙って床に落ちた布を拾い上げた。布には血がついている。流血するような強さでシルヴァーンは噛み付いたはずなのに、布が破れている様子はどこにもなかった。
「竜の爪でも破れない布を用意していた。時間をかけて準備をしていたんだ」
「クソッ……」
ハリュナルは悔しそうに拳を握り込んだ。
「私を騙して、よりによってチェリを危ない目に遭わせるなんて、許さん……」
「身元を保証する人まで用意していたんだろうから、一介の学生でしかない私たちに見破れるような偽装ではないだろう。不審な所はなかったんだから」
「正論……」
ナツァークの言葉に、ハリュナルは不満そうに唇を尖らせた。
「大学に戻ったら、アリエ・キンディールについて調べよう。なりすましか、そのような者はいないかのどちらかだと思う」
「無理を言っても今日中にお祖父様に報告をすべきだったな……」
ハリュナルがそう言ってため息をついた瞬間。
「呼んだか?」
突然の返事に、チェリもハリュナルもナツァークも驚いて振り向いた。扉からハリュークが部屋に入ってくるところだった。
「夜中に騒がしい。何が起きた」
ハリュークは特段うろたえた様子もなく、静かに状況の説明を求めた。
ハリュナルとナツァークがチェリを下がらせ、説明を買って出た。話は別室でということになり、二人はハリュークと共に部屋を出ていった。
チェリはメイドのディラと共に自分の部屋に残された。扉の外と廊下には警備兵が数人配置され、夜が明けるまで見張ることになった。
ベッドに腰掛けるチェリに、ディラが静かに声をかけた。
「チェリ様、今夜は大丈夫ですよ。朝まで私がいますから。もし頼りないようであれば、もっと人を呼ぶこともできます」
「ありがとう……」
チェリは疲れたように微笑んだ。
「もう、ひどいですよ。騙して拐おうとするなんて……許せません。あいつ、次に見たら箒で殴ってやります」
ディラはチェリの腕の中のシルヴァーンを見ながら言った。シルヴァーンはまだ震えている。
「箒じゃ勝てそうにないから、それはやめてね」
「そうですか? 私の火魔法を使ってもいいですけど、火事になったら困りますから、箒くらいで勘弁してやろうと思ったんですけどね」
チェリは思わず苦笑した。
ぷんぷんと怒るディラの顔を見ていると、少しずつ冷静になってくる。
チェリはシルヴァーンの頭に顔を埋めた。シルヴァーンの震えが、少しずつ収まっていく。
(最初から、知ってたんだね)
シルヴァーンは最初の日から警戒していた。ずっと唸り続けていた。
チェリはシルヴァーンをきつく抱きしめたまま、窓の外に目をやった。月明かりの下、警備兵たちが庭を見回る姿がはっきりと見えた。




