22 教師の到着 子竜の怒り
馬車が到着するという知らせが来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
ハリュークは執務室の長机に座り、手元の書類を眺めていた。ハリュナルが持ってきた、竜生学教師アリエ・キンディールに関する書類だ。
大学での成績、専攻、身元の保証人、これまでの経歴。どれを見ても問題はない。むしろ優秀と言っていい。
それでも、ハリュークの視線は書類の上で止まったままだった。
「何か気になることでもありますか」
傍らに立つナテュークが静かに尋ねた。
ハリュークは答えなかった。書類を伏せて、窓の外に目をやる。
しばらくして、扉が叩かれた。若い使用人が顔を出し、馬車が城門に到着したことを告げる。
「通せ」
ハリュークは短く言った。
* * *
執務室に通されたアリエ・キンディールは、まだ二十代の男にしては落ち着いた身なりをしていた。穏やかな笑顔で物腰は柔らかく、丁寧な礼をしてから口を開いた。
「お招きいただき、光栄です。アリエ・キンディールと申します。微力ながら、お役に立てるよう努めます」
ハリュークは無言でその顔を見ていた。
挨拶が交わされ、滞在中の条件と役割について事務的な確認が続く。アリエは落ち着いた様子で受け答えをした。
「――では、よろしく頼む」
最後にハリュークがそう言いながら、鋭い目でアリエを見据えた。
一瞬、アリエの笑顔が固まった。それから、わずかに目を伏せて一礼した。
「……はい。精一杯務めます」
アリエが執務室を出た後、ナテュークがため息をついた。
「いつになく厳しい顔でしたね。脅してどうするんですか」
「脅してはおらん」
「傍から見れば同じです」
ハリュークは少し黙ってから、ふと口を開いた。
「サジットという教師は……」
「チェリたちの教師ですね。彼女が何か?」
「あの時はできるだけ和やかに、笑顔で話をした。それでもあの教師はさっきの男よりも怯えていたな」
ナテュークは眉をひそめた。
「……それで、どうせ怯えるから表情など関係ない、と?」
ハリュークは答えなかった。
「開き直らないでください」
ナテュークのため息が、静かな執務室に溶けていった。
* * *
その頃、教室ではチェリたちが手持ち無沙汰に座っていた。
「今日は竜生学の授業はありませんよ」
サジットがそう言った時、三人は揃って「えー」と声を上げた。
それに呼応するように、教室の後ろのテーブルの上の籠の中のシルヴァーンがあくびをした。
「今日は竜生学の先生との顔合わせだけです。授業は明日からです」
「竜の授業、受けたかった〜」
ガンマが残念そうな顔をすると、サジットは首を振った。
「今日到着したばっかりで、いきなり授業なんてできませんから」
「でもサジット先生は来たその日に授業しましたよね?」
チェリは手を挙げて質問するように言った。
「それは……私の授業は初回はいつもあれなので。マニュアルを作ってるのですぐできるんです!ああやっていきなり持論をぶちかますと生徒の心を掴めるので!」
「生徒にそういう手の内を明かしちゃっていいんですか……」
そんな会話を繰り広げていると、教室の扉がノックされた。
案内の使用人に続いて入ってきたのは、穏やかな笑顔の男だった。
「はじめまして。アリエ・キンディールと申します。しばらくの間、竜生学をお教えいたします」
丁寧な一礼。落ち着いた声。チェリはその第一印象を、感じのいい人だと思った。ナハヤも静かに頷いている。ガンマは「よろしくおねしゃーっす」と元気よく答えた。
サジットが挨拶を返し、三人を紹介する。アリエは一人ひとりの名前を繰り返して確認し、にこやかに笑った。
「それから、あの、あちらの後ろの――」
サジットが少し腰の引けた態度でシルヴァーンの籠を示した瞬間だった。
アリエの目が、大きく見開かれた。
「……っ」
穏やかだった表情が、一瞬で別のものに変わった。食い入るように籠を見つめ、気づけば足が前へ出ていた。
「これは……なんと、美しい……!」
声が震えていた。惹きつけられるようにアリエはシルヴァーンに向かって歩き出していた。
「……ちょっと待って!」
チェリが立ち上がった。だが間に合わなかった。
アリエが籠に手を伸ばした瞬間――
「ガウッ!!」
鋭い声と共に、シルヴァーンが飛びかかった。
「っ……!」
アリエが咄嗟に手を引いたが、牙が右手の甲を掠めた。薄く赤い線が走り、すぐに血が滲む。
「シルヴァーン!!」
「ひいっ……!」
チェリとサジットが叫ぶと、シルヴァーンは籠の縁に前足をかけたまま、アリエを睨みつけていた。低く、唸るような声を立てている。
教室が静まり返った。
アリエはしばらく自分の右手の傷を見つめていた。それから、はっとしたように顔を上げた。
「……申し訳ありません。取り乱してしまいました」
声は再び落ち着いていた。穏やかな笑顔が戻っている。
「竜をこんなに間近で見るのが初めてで、つい……怪我は大したことありません。こちらが不用意でした」
「……アリエ先生、大丈夫ですか」
チェリが尋ねると、アリエは笑って頷いた。
「ええ。ご心配なく」
「手当ての道具を探してきます!」
サジットがそう言って急いで部屋を出た。
ガンマとナハヤはアリエの手の傷を心配そうに見ている。
チェリはアリエの笑顔を見ていた。
感じのいい人だ、という第一印象は変わっていない。取り乱したのも、竜を初めて見た驚きだと言われれば、そうかもしれない。
でも。
籠の中のシルヴァーンは、まだアリエから目を離していなかった。低い唸り声は止まず、全身の鱗が逆立っている。
チェリはシルヴァーンの頭にそっと手を置いた。シルヴァーンは唸るのをやめなかった。




