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19 初夏の教室 兄たちの乱入

 初夏の朝、教室にはいつもと少し違う気配があった。


 チェリの席の足元、大きな籠の中でシルヴァーンが丸まって寝ている。今日だけの特別な同席だった。チェリの部屋が夏に向けた大掛かりな模様替えの最中で、あちこちに使用人が出入りする慌ただしい空気の中ではシルヴァーンも落ち着かないだろうということで、教室に連れてきたのだ。


 「静かに寝てるな」


 ガンマが籠を覗き込んでそう言うと、シルヴァーンは寝ぼけたようにうっすらと目を開けてガンマを一瞥し、またすぐに閉じた。


 「寝ぼけてる。……こうやって寝てる時は大人しいよね」


 チェリが苦笑する。


 シルヴァーンはナハヤとガンマにもすっかり慣れ、今では二人の手からも餌を食べるようになっていた。ガンマには最初噛みついてばかりいたが、今ではガンマが籠に近づいても威嚇しない。ナハヤには比較的早く慣れた。おそらく静かに座っていることが多いせいだろう、とチェリは思っている。


 一方、サジットはいまだにこの子竜に慣れていなかった。


 「……サジット先生、大丈夫ですか」


 ナハヤが声をかけると、サジットは教壇の端で背筋を伸ばしたまま、できるだけ籠から目を逸らすようにしていた。


 「だ、大丈夫です。授業を始めましょう……」

 「先生、シルヴァーンのこと、まだ怖いんですか」


 チェリが尋ねると、サジットは少し間を置いてから正直に答えた。


 「……小さくても、竜ですので」


 その時、籠の中のシルヴァーンが大きなあくびをした。小さな口から、細かい歯がずらりと並んでいるのが見える。


 「ヒッ……!」


 サジットが短く声を上げて半歩後退した。


 三人は顔を見合わせた。


 「ただのあくびです、先生」

 「……わ、分かってます!」


 分かっていても怖いものは怖いらしい。サジットは咳払いをして姿勢を整えた。


 「と、とりあえず竜……籠を後ろに置いていただけますか。少し距離があった方が……授業に集中できますので」


 後ろというのは、おばあさまたちが頻繁に訪れるようになってから、お菓子やお茶休憩用として使われているテーブルのことだ。いつの間にか教室の後方に椅子と一緒に置きっぱなしになっていた。

 今ではおばあさまがいない時でも休憩スペースとして使われている。


 「はーい」


 チェリは籠を持ち上げ、後ろのテーブルへと運ぼうとしたそのときだった。

 シルヴァーンがむくりと起き上がり、籠の縁に前足をかけた。眠そうだった目が、すっと細くなる。教室の入口の方を、じっと見つめていた。


 「……どうしたの?」

 「お祖父様かな?」

 「ここに来る前に気付くって、さすがに嫌いすぎだろ」


 チェリが籠を持ち上げたまま立ち止まって様子を見ていると、扉がノックされた。

 コンコンと、軽く。


 そして返事を待たずに、扉が勢いよく開いた。


 「チェリーーー!!!」


 飛び込んできたのは、長身の青年だった。金色の髪が風を切るように揺れ、大きく両腕を広げながら、一直線にチェリへと向かってくる。


 「うわっ!? ナル兄様!? やめてって言ってるでしょ!!」


 チェリは籠を抱えたまま即座に後ずさった。青年の腕が空を切る。


 「久しぶりだろう! 抱きしめさせろ!」

 「絶対嫌!!」

 「チェリは相変わらず冷たいなあ……」


 ナル兄様と呼ばれた青年、ハリュナルが口を尖らせたところへ扉からもう一人が入ってきた。落ち着いた足取りで、やれやれというように首を振っている。


 「……返事も待たずに扉を開けるな、兄上。ここは教室だぞ」

 「兄妹の再会に細かいことを言うな、ナツァーク」

 「授業中に押しかけておいて細かいことはないだろう」

 「まだ授業は始まってないようだが」

 「……それはそれで迷惑だ」


 ナツァークはハリュナルに呆れた目を向けた後、教室の中を見渡した。ナハヤとガンマが目を丸くしてこちらを見ている。サジットは突然の乱入者に固まっていた。


 「……久しぶり、ナハヤ、ガンマ」


 ナツァークが静かに言うと、二人の顔がぱっと明るくなった。


 「ナツ兄!」

 「久しぶりっす!」


 ガンマが椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がり、ナハヤも本を置いて立った。


 「ナル兄も!」

 「おお! ガンマも元気そうだな! ナハヤも!」


 ハリュナルは腕を広げてガンマを迎え、豪快に背中を叩いた。ガンマは叩かれた勢いでよろけながらも嬉しそうにしている。同じように背中を叩かれたナハヤも少し照れくさそうに笑った。


 チェリはその光景を籠を抱えたまま眺めていた。


 兄たちはいつもこうだ。現れる時は唐突で、場の空気など気にしない。でも、その気安さがなんだか嬉しかった。

 いつも乱入してくるおばあさまたちのことが思い出される。

 (あっそうだ。こういう時、先生って…)


 チェリが教壇のほうを見ると、思った通りサジットは固まっていた。


 「……先生、すみません。私の兄たちです」

 「お、お兄様方……ということは、同じくハリューク様の……」

 「孫です」

 「……は、はじめまして」


 サジットが深くお辞儀をすると、ハリュナルが朗らかに笑った。


 「先生か! チェリたちがお世話になっています!」

 「い、いえ、こちらこそ……!」


 ナツァークもきちんと一礼した。

 「突然お邪魔して申し訳ありません。授業の邪魔をするつもりはなかったのですが、この人が待てないもので」

 「ノックしてちゃんと待ったぞ」とハリュナルが言い返す。

 「そうではなく……いや、返事を待たずに入ったじゃないか! 待ってない!」


 そのやり取りを見て、チェリは小さく笑った。


 籠の中のシルヴァーンは、新しい来訪者たちをじっと観察していた。威嚇する様子はない。ただ静かに、じっと見ている。


 「チェリ、それが……竜か?」


 ハリュナルがシルヴァーンに気づいて、目を丸くした。


 「そう。シルヴァーン」

 「本物だ……!」


 ハリュナルが籠に近づこうとすると、シルヴァーンがすっと身を引いた。拒絶というほどではないが、歓迎もしていない。


 「ちょっと待って、兄様。いきなり近づかないで」

 チェリが制すると、ハリュナルは渋々足を止めた。


 「……警戒されてるか」

 「当たり前でしょ、初対面なんだから」


 ナツァークはシルヴァーンと少し距離を置いたまま、静かに観察していた。


 「……春祭の話は聞いていた。実際に見ると、想像より小さいな」

 「まだ生まれて数ヶ月だから」

 「大きくなるのか?」

 「なるよ」


 チェリがそう答えると、ナツァークはふうん、と小さく頷いた。


 「チェリが育てるんだな」

 「うん。そのつもり」

 「……そうか」


 それだけ言って、ナツァークは微かに笑った。チェリのことを心配しに来た、とは言わなかった。でも、その笑い方でチェリには分かった。


 「心配しなくて大丈夫だよ、ナツ兄様」

 「心配なんかしていない」

 「してるでしょ」


 ナツァークは答えなかった。それがまた、答えだった。

 「俺も心配してたぞ!」

 ハリュナルが割り込んだ。

 「兄様は心配というより、会いたかっただけでしょ」

 「それも心配のうちだ!」

 チェリは仕方ないなと呆れながらも、口元が緩んだ。


 サジットはその他愛ない家族のやり取りを、教壇の脇でそっと眺めていた。

 授業は完全に止まっていたが、久しぶりの家族の再会を邪魔する気にはなれなかった。

 なにより、ハリュナルの場の支配力に勝てる気がしない。授業は諦めようか、と思っていたら。


 「ハリュナル、先生が困っている。行くぞ。これ以上授業の邪魔をするな」

 ナツァークがハリュナルの肩を掴んで、引き摺っていこうとする。

 「えー、もう少し。」

 ハリュナルは必死で抵抗している。 


 「まだお祖父様にもおばあさまたちにも、父上や母上にすら顔を見せてないだろう。皆に挨拶をしている間に授業は終わるよ。それに……」

 ナツァークがそっと目配せをすると、ハリュナルは何かを思い出したように立ち上がった。

 「ああ、それもそうだ。……それではまた後で。ひとまず失礼します」

 ハリュナルは軽く一礼して、さっさと扉へ向かう。一方ナツァークは足を止め、サジットに向かって深々と頭を下げた。

 「突然押しかけて、大変失礼いたしました。授業が終わった後にまた伺います」

 「い、いえ……どうぞお気になさらず」

 扉が閉まった後、教室に静寂が戻った。


 「大学ではナツ兄がナル兄の尻拭いをしてんだろうな……」

 ガンマの一言に、他の全員が頷いていた。

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