16 始まる勉強 地道な訓練
「それは授業で使うために、準備していただいたものです」
柔らかい声が教室の入り口から響いた。
チェリが振り返ると、深緑のマントを羽織った女性が、鞄を抱えて立っていた。茶色の髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥に緊張と決意を同居させた表情を浮かべている。
「はじめまして。今日から一年間、あなたたちの勉強を担当します。サジット・フィンラーと申します」
深くお辞儀をしながら自己紹介をするその姿に、チェリは一瞬目を見張った。思っていたよりも若く、そしてきちんとした人だ。
三人も立ち上がり、それぞれ礼をして名乗った。
「はじめまして。チェリーチェ・バイフートです。よろしくお願いします」
「ナハヤール・バイフートです。よろしくお願いします」
「ディガンマ・バイフート! よろしくお願いします!」
きちんと礼儀正しく、しかも反抗的な様子もない――その事実に、サジットは思わず心の中で息をついた。
(よ、よかった……! とんでもないワガママ娘とか、甘やかされ放題の問題児が出てくるんじゃないかって本気で思ってたけど……)
三人は素直に席につき、教壇の方を向いている。その視線に悪意はなく、むしろ期待と好奇心がまじっていた。
そんななか、チェリが手を挙げて言った。
「先生!」
「……っ、ハイ!」
突然呼びかけられたサジットは裏返った声で返事をしてしまった。
「黒板は魔法式ではないようですが、どうしてなんでしょうか?」
「えっ、あ……こほん、それはですね。試験までに、魔法でなんとかしようという意識をなくしてもらうためです」
サジットの返答に三人は困惑した。言っていることが理解できない。
「貴族は必ず魔力を持っていて、基本的にはそれに頼って生活しているわけですが、机に向き合う時にだけは一旦それを忘れてもらいたいのです。特に、文字を書くことと魔法を、きっちりと切り離してもらいたい」
その言葉に三人はますます困惑を深めている。勉強と魔法を使わないことに何の関係があるのか。本気で分からない。
サジットは困惑する彼らを気にすることなく、そっと鞄から紙と鉛筆を取り出した。
「さて、これは今日からあなたたちが使う道具です。はい、こちら――普通の紙と、普通の鉛筆です」
三人の手元にそれぞれノートと鉛筆が置かれると、明らかに困惑の色が浮かんだ。
「えっ……魔力紙じゃないの?」
「筆記具も、魔法を使わない人の……?」
魔力紙と魔力筆は、魔力を多く持ち、それを自在に扱える貴族にとっては非常に便利な道具である。手を動かさずとも素早く美しい文字を記すことができ、貴族の間ではそれを使うのが当たり前になっていた。
「そうです。大学入学試験は、普通の紙と筆記具で行われます。魔力紙に慣れていると、本番でうまく文字が書けなかったり、集中力を欠いたり、手が疲れて最後まで問題が解けなくなることもあり得ます」
三人が口を揃えて「ええ~~~っ」と叫ぶ。
「今日からはじっくり時間をかけて、“自分の手で”文字を書く練習をしてもらいます。ノートを取るのも宿題も」
サジットが優秀な家庭教師と評されているのは、勉強を教える能力だけでなく、こうした基本をおろそかにせず、確実に点を積み重ねて合格者を増やしているからでもあった。
ナハヤは観念したように「確かに理屈では正しい……」と呟き、ガンマは「えー、めんどくさー……」と机に突っ伏した。
そしてチェリもまた、軽く肩を落としてぼやいた。
「受験って勉強だけしてればいいものだと思ってた……」
チェリは元々勉強は得意で、どこかに自信、というか驕りがあった。
だが、いきなりの地道な練習に直面して、その考えが甘かったことを痛感する。
「ちなみに、入学試験で普通の紙を使うよう制度を改めたのは、あなたたちのお祖父様ですよ。魔力を持たない平民でも受験できるようにするためです。……もっとも、魔力を使ったカンニングが横行していたので、試験会場内で魔力を一切使わせない方式に変更した、という側面もあるのですけれど」
「さすがお祖父様」「そんなことまで!」
「油断してると、すぐにお祖父様の名前が出てくるなあ……」
ナハヤとガンマは素直に感心した様子だったが、チェリだけは複雑そうな顔をした。
「さあさあ、こちらの本の内容を書き写してください。有名な魔術論の序文を集めた本ですから、覚えておいて損はありません。書き写すことで、ある程度は記憶にも定着するでしょう。一石二鳥ですよ!」
サジットは三人に本を差し出し、手で書き写す指示をした。
ガンマは本の内容をゆっくり声に出しながら一文字一文字書き写していたが、
「試験中に声は出せませんよ!」
と、すぐにサジットに叱られていた。
ナハヤは淡々と、それなりの速度で書き写している。だが鉛筆を握る力が弱いのか文字はあまり整っていない。
「ちゃんと読める字を書きなさい」
と注意を受けた。
一方チェリはゆっくり丁寧に書き写していたが、
「その調子では問題を解く時間が足りなくなります」
と叱られてしまう。
三人ともサジットから合格をもらうまでの道のりは長そうだった。
「うう……厳しすぎない……?」
結局その日の授業はすべて手で文字を書く練習に費やされた。
授業が終わる頃には三人ともさすがにぐったりとし、手をさすりながら机に突っ伏していた。
そんな時、突然教室の扉をノックする音がした。




