13 子竜の様子 懐かれる者
春祭が終わって数日。
シルヴァーンは、チェリの部屋にすっかり馴染んでいた。
部屋の隅に置かれた大きな籐のバスケット――本来は毛布や予備の衣類を入れるためのものだったが、今ではシルヴァーンの巣になっている。
シルヴァーンは朝起きるとそこで丸まって寝ていることもあれば、いつの間にかベッドの足元に移動していることもある。
チェリが気づかないうちに部屋中を動き回っているらしく、朝になると昨日置いた場所にないものがある、という事態が日常になっていた。
「また本が落ちてる……」
チェリは床に転がっていた竜生学の本を拾い上げた。表紙に小さな引っかき傷がついている。シルヴァーンを見ると、バスケットの中でぐるぐると回りながら自分の尾を追いかけていた。
自分には関係ないという顔をしている。
「お前がやったんでしょ」
シルヴァーンはチェリを一瞥して、またぐるぐると回り始めた。
餌の時間になると、チェリの手からは素直に食べる。
最初の頃は口元に持っていっても顔を背けることもあったが、今ではチェリが器を持って近づくだけで首を伸ばしてくる。
問題は、チェリ以外からはなかなか食べないことだった。
「ダメか……」
ガンマが小皿を持ったまま、しゃがんでシルヴァーンと目線を合わせようとしている。
シルヴァーンはバスケットの縁に顎を乗せ、ガンマの手の中の餌をちらりと見てから、興味なさそうに目を閉じた。
「無視された」
「何度も拒否されてもよくやるね」とナハヤは読んでいる本から目を上げずに言う。
二人がシルヴァーンに構い始めて、すでに一週間近くが経つ。それでも餌を受け取る気配は一向にない。
「チェリ、何かコツとかない?」
「コツと言われても……?」
チェリは少し言いよどんだ。生まれた瞬間に抱きとめてしまったのだから、最初から特別扱いされているのは確かだ。
同じようにはいかないだろうという気がしていたが、それを言うのも少し悪い気がした。
転機が訪れたのは、その翌日だった。
ディラが朝の片付けに来たとき、シルヴァーンがバスケットから出てきて、ディラの足元をうろうろし始めた。ディラは驚きながらも落ち着いた様子でしゃがみ込み、持っていた餌の小皿を差し出した。
シルヴァーンは少し間を置いてから、ぱくりと食べた。
「えっ」とチェリが声を上げ、「嘘だろ」とガンマが目を丸くした。ナハヤは「……へえ」と静かに納得したような声を出した。
「うふふっ……それでは皆様、失礼いたします」
そのままディラは上機嫌で部屋を出ていった。
「毎日何度も部屋に来てるから、早く慣れたんじゃないかな」
チェリがそう言うと、ガンマとナハヤは揃って複雑な顔をした。
「つまり俺たちよりもディラに親しみを感じてる、と」
「そういうこと」
「……俺、毎日来てるんだけど」
「来てるのと、部屋の中で作業してるのは違うんじゃないかな」とナハヤが言った。
「ディラさんはここで掃除したり、チェリの世話をしたりしてる。シルヴァーンからすれば、ずっと近くにいる存在ってことになる」
ガンマはそれを聞いて「じゃあ俺も毎日掃除すれば……」と言いかけて、チェリに「しなくていい」と遮られた。
部屋に出入りする五人のおばあさまたちをシルヴァーンが嫌っているわけではなさそうだった。
特にミルザが部屋を訪ねてくると、シルヴァーンはバスケットからひょこりと顔を出す。
ただ、その手から餌は食べない。おばあさまたちも無理に近づこうとはせず、それぞれのやり方で距離を保っていた。
使用人たちに対しても、攻撃的な様子は見せなかった。廊下で出くわしても逃げるでも威嚇するでもなく、ただ無関心に通り過ぎる。
チェリの部屋の前まで様子を見に来る使用人たちに対しても、扉越しに気配を感じているはずだが、特に反応しない。
ただ、一つだけ気になることがあった。
ハリュークが来たときだった。
ハリュークが部屋に顔を出すのは多くはないが、それでも様子を見にくることがある。そのたびに、シルヴァーンの様子が変わった。バスケットの中に体を縮め、ハリュークの方をちらりと見て、それから明らかに目をそらすのだ。嫌そうに、とでも言うしかない仕草で。
ハリュークもそれを見ていた。何も言わなかったが、何も感じていないわけではないだろう。
チェリはその光景を見るたびに、胸の奥にひっかかりを覚えていた。
ガンマとナハヤが部屋に来ていたある夕方、チェリはシルヴァーンを膝に乗せたまま、ぽつりと言った。
「ねえ。シルヴァーンがお祖父様を避けるの、私のせいかな」
二人が顔を上げた。
「私がお祖父様のことを苦手だから……シルヴァーンもそれを感じ取って、同じようにしてるんじゃないかって」
膝の上のシルヴァーンは目を閉じて、チェリの手のひらに顎を預けていた。この話が自分に関係あるとは、まるで思っていないような顔をしている。
「シルヴァーン、お祖父様と仲良くしてよ〜!お願いだからさ〜すごく気まずいの!」
チェリはぐりぐりとシルヴァーンの顎を撫でながら、頼み込むようにそう言ってみたが、当の本人はあくびを一つして、撫でられる手にじゃれついてくるだけだった。
「竜って人の言葉が分かるのか?」
ガンマはそう言いながら、チェリにじゃれつくシルヴァーンに触ろうと手を近づけようとしたが、噛まれそうな予感がしたのか途中で引っ込めた。
「分からないけど。でも……」
チェリは少し黙ってから、続けた。
「感情は伝わってる気がする。私がびくびくしてたら、シルヴァーンもそうなるみたいな」
「つまり、お祖父様が怖いっていうのが伝わってると」
「怖いとは言ってない」
ガンマがにやりとしたのを見て、チェリはむっとした。
「苦手、なの。なんか……底が見えなくて」
シルヴァーンがチェリの指先に顎をこすりつけた。チェリはそれをぼんやりと受け止めながら、続けた。
「お祖父様がシルヴァーンを嫌ってるわけじゃないのは分かる。でも、シルヴァーンは避ける。それが……私のせいだとしたら、ちょっと嫌だな、って」
部屋に夕暮れの光が差し込んでいた。
ナハヤは少しの間黙っていたが、静かに口を開いた。
「チェリがお祖父様と仲良くなれば、解決するんじゃないの」
「……それができたら苦労しないんだけど」
「だよね」
ナハヤは少しの間黙っていたが、静かに口を開いた。
ナハヤはあっさりとそう返した。フォローする気はないらしい。
「あれ?チェリの口からお祖父様が苦手って、初めて聞いたな」
ガンマが言った。
「薄々そんな感じはしてたけどね。そうやって実際に口に出せたんだし、一歩前進したとは思うけど」
チェリはバツの悪そうな顔をして、視線をシルヴァーンに落とした。
「……だって、お祖父様のことを悪く言っちゃいけない空気があるじゃない。そんな中で苦手って言うなんて」
「まあね……でも、チェリの苦手意識がシルヴァーンに伝わってるって決まったわけじゃないし」
「あ!俺とシルヴァーンが仲良くなったらお祖父様と和解するかもな!俺はお祖父様をめっちゃリスペクトしてるし?」
ガンマが名案とばかりに身を乗り出した。
「なにそれ。あははっ。だったらおばあさまたちに懐いてもらうのが一番じゃない?あんなにお祖父様のこと大好きなんだから」
「っあー!確かに!おばあさまたちには負ける……」
ガンマが天井を仰いで項垂れると、膝の上のシルヴァーンがむくりと起き上がり、ガンマの方をじっと見た。しばらくそのままでいたかと思うと、興味を失ったようにくるりと向きを変え、またチェリの膝に丸まった。
「今、絶対こっち見たよな?」
「見てたね」
「……近づいてはこないけど」
三人は顔を見合わせて、小さく笑った。




