99 筒抜けの会話 天授奉明室へ
夕食を終えて部屋に戻ると、チェリは寝台の端に腰を下ろして石の板を取り出した。
板はすでに光っていた。
〈部屋に着いた〉
ガンマからだった。食堂で別れてからまだ幾らも経っていない。チェリは指先で表面をなぞった。
〈早いね〉
〈走った〉
続けてナハヤの板からも届く。
〈ノルムに廊下を走るなって言われてた〉
〈言われてねえ〉
〈言われてた〉
チェリは声を立てずに笑った。三人で同じ食卓を囲んでいるような気がしてくる。
食堂で試した時は、慣れない手つきで一文字ずつなぞるのがやっとだった。部屋に戻ってからのほうが指が速い。いつの間にか、浮かぶ文字に漢字が混じるようになっていた。
〈さっき言ってた竜笛、またやった?〉
ガンマからだった。
〈やった。部屋に戻ってから何回か〉
〈どうだった〉
〈吹くたびに首がぴくってなる。ちゃんとこっちを見るの〉
籠の中のシルヴァーンが、チェリの手元で光る板を不思議そうに覗き込んでいる。チェリが板を傾けて見せると、鼻先を近づけてくんくんと匂いを嗅いだ。
〈覚えさせられないかなと思って。一回吹いたら来る、二回吹いたら止まる、とか〉
〈犬みたいだな〉
〈竜は犬より賢いと思う〉
〈俺も吹きたい〉
〈ガンマが吹いたら逃げると思う〉
〈なんでだよ〉
チェリは板を膝に置いて、少し笑ってから続きを打った。
〈今度三人で試そう〉
送ったところで、部屋の隅から小さな咳払いが聞こえた。
顔を上げると、ディラが自分の板を両手で持って立っていた。板は淡く光っている。
「チェリ様。今のお話、全部こちらにも届いております」
「あ」
チェリは自分の板を見下ろした。三人で送り合っていたつもりだったが、どれも全部に送っていたらしい。
「ごめん、筒抜けだった?」
「はい。ガンマ様が廊下を走られたことも、ノルムさんに叱られたことも」
ディラは板を胸の前で持ち直した。
「私としては、チェリ様のご様子が分かって助かりますが」
「……そう言われると、なんか恥ずかしい」
チェリは板に向き直った。
〈全部ディラに届いてた〉
しばらく間があった。
〈知ってた〉
ナハヤだった。
〈知ってたなら言ってよ〉
〈別に困らないかと思って〉
〈俺は知らなかった〉
〈ガンマは知らないと思った〉
ディラが小さく吹き出した。
チェリは寝台の上で姿勢を直した。手元にはまだ、持ち主の決まっていない板が二つ残っている。
〈残りの二つ、どうしよう〉
〈ナツ兄様には渡していいと思う〉
〈ナル兄はやめとけ〉
〈でも渡さなかったら、それはそれで後が怖い〉
〈それはそう〉
〈急がなくていいんじゃない。保留で〉
ナハヤの言葉で、話はそこで止まった。チェリは二つの板を包みに戻して、卓の上に置いた。
それから、ふと思い出して文字をなぞった。
〈明日どうする? 入学式の前の日だけど〉
〈天授奉明室?〉
ナハヤはすぐに察したらしかった。
〈行くなら三人でって言ったよね〉
〈約束もなしに行って大丈夫かな〉
〈いつでも来ていいって書いたのは向こうだよ。押しかけてやろう〉
チェリは目を瞬いた。ナハヤにしては珍しく強気だった。
〈押しかけるの?〉
〈事前の連絡は要りませんって書いてあった。ならこっちの都合で行っていいはずだよ。入学式が始まったら講義で忙しくなるし、行くなら明日がいい〉
〈行く!〉
ガンマからだった。
〈何するのか全然分かんねえけど気になる〉
〈ガンマは気になったら行くもんね〉
〈悪いか〉
〈悪くない。でも勝手に何か約束したりしないでね〉
〈しねえよ〉
話がまとまってからも、板はなかなか静かにならなかった。明日は何時に出るか。どこで落ち合うか。天授奉明室はどの建物にあるのか。ガンマの寮の部屋の窓から何が見えるか。ナハヤの部屋の寝台が硬い話。
夜はすっかり更けていた。
寝台の上で板を抱えたまま、チェリが新しい文字をなぞろうとした時、部屋の扉が叩かれた。
「チェリ様」
隣の使用人部屋に下がっていたはずのディラだった。寝間着の上に肩掛けを羽織って、手には光ったままの板を持っている。
「さっきから、こちらの板がずっと光り続けておりまして」
「あ……」
「眠れません」
ディラの声はいつもより低かった。
「それに、チェリ様もそろそろお休みにならないと。明日はお出かけになるのでしょう」
「……はい」
「ナハヤ様とガンマ様にも、そうお伝えください」
チェリは素直に頷いて、文字をなぞった。
〈ディラに怒られた。もう寝る〉
すぐに二つの返事が来た。
〈おやすみ〉
〈おやすみ。ディラごめん〉
ディラは自分の板に浮かんだ文字を見下ろして、小さく息をついた。
「おやすみなさいませ」
* * *
翌朝、朝食を済ませた三人は食堂の入口で落ち合った。タウラがチェリの半歩後ろについている。
「眠そうだな」
「ガンマもでしょ」
ガンマは大きな欠伸を噛み殺した。ナハヤだけがいつも通りの顔をしている。
天授奉明室は神学系の建物の中にあった。黒寮から大学の敷地を横切り、講義棟の並ぶ区画を抜けた先に、古い石造りの建物が建っている。入口の柱には細かな彫刻が施されていて、他の講義棟よりも少しだけ厳かな雰囲気があった。
入学式の前日で、学生の姿はまばらだった。廊下に三人の足音が響く。
案内板を頼りに階段を上がり、奥の廊下の突き当たりまで進むと、扉の脇に小さな札が掛かっていた。
天授奉明室。
「ここだね」
ナハヤが札を見上げて言った。ガンマは扉の前で身を乗り出している。チェリは振り返ってタウラを見た。タウラは小さく頷いた。
チェリは息を一つ吸って、扉を叩いた。
少しの間があった。
「はい、どうぞ」
中から返事があった。女の人の声だった。




