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アーネム戦記  作者: Tanu1016
第七章 君のいる場所へ

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第6話 エル日記

 ◇


 279年2月。


 リービッヒ王宮。


 夕刻を過ぎても、王女カレリアの執務室には灯りが残っていた。


 机の上には各地から届けられた報告書が積み上がっている。その一枚を手に取り、カレリアは眉間に皺を寄せながら、並んだ数字を追っていた。


 麦の価格が上がっている。


 鉄も高い。


 塩、油、布、薪。生活に必要なものは、ほとんど例外なく値上がりしていた。とりわけ上昇が激しいのは、これまでパドゥーラから大量に入っていた品々だった。


 ラレドの戦い以降、両国の交易量は大きく減少している。


 ガレスやイーワンたちは、パドゥーラ産の安価な商品が国内産業を圧迫しているとして、関税の引き上げを強硬に主張した。


 当然、パドゥーラも黙ってはいなかった。


 リービッヒからの商品に同様の措置を取り、一部の物資については交易そのものを制限した。


 その結果が、目の前の数字だった。


「街の人たちは、今年は厳しいと申しているみたいです」


 傍らに立つミアが言った。


「そうでしょうね」


 カレリアは報告書から目を離さなかった。


「こうなることは、ある程度わかっていたわ。今はしのぎきるしかない」


 そう答えながらも、自分の言葉がひどく頼りなく聞こえた。


 カレリアが元老院の会議へ本格的に出席するようになって、一年半ほどになる。


 王女として王宮に暮らしているだけでは知らなかったことを、そこでいくつも知った。そして知れば知るほど、リービッヒという国の経済状態が、自分が思っていた以上に悪いことも理解した。


 だからこそ行われたのが、パドゥーラ侵攻計画だった。


 パドゥーラを占領し、その農地と生産設備を回収する。


 そこで生み出される食料と工業製品を使い、疲弊したリービッヒを立て直す。


 乾坤一擲の作戦だった。


 そして、失敗した。


 エルとヴァンが立てた作戦そのものに、大きな問題はなかった。


 当初は予定通りだった。


 上陸は成功した。パドゥーラ市街も確保した。


 そこから先で、すべてがおかしくなった。


 アンスバッハをはじめとする門閥貴族たち。


 あの者たちなど使わなければ。


 もし、あそこにモンドがいれば――。


 カレリアはそこで考えるのをやめ、報告書を机へ戻した。


 いまさら考えても意味はない。


 終わった戦いは戻らない。


 その後、ラレドの戦いを制したことで、広がりかけていた諸侯の離反そのものは収まった。


 だが、それだけだった。


 勝ったからといって国庫に金が増えたわけではない。


 畑から麦が増えたわけでもない。


 途絶えた交易が戻ったわけでもなかった。


 カレリアは最後の報告書まで目を通すと、深く息を吐いた。


「ところで、エルは?」


「今はノースジョウ方面の巡察に回られています」


「また……」


「はい」


 ミアも表情を曇らせた。


 ラレドの戦いが終わってから、エルはほとんど王都に戻っていない。


 ノースジョウへ行き、ラレドへ戻り、また別の領地へ向かう。住民の不満が高まれば慰撫に向かい、領主と住民の間で問題が起これば仲裁に入る。


 休まないのではない。


 休ませてもらえていなかった。


 ガレスやイーワンたちは、いまだエルを疑っている。


 ラレドでリービッヒのために戦い、勝利に貢献した。それでも疑念が消えたわけではない。


 ならば働かせればいい。


 忠誠を示せ。


 そう言わんばかりに、次から次へと任務を与えている。


 最後に王宮へ戻ってきたときのエルを、カレリアは思い出した。


 もともと細い子だった。


 その細い身体が、以前よりもさらにか細く見えた。


 頬も痩せ、顔色もよくない。目の下には薄く隈まで浮かんでいた。


 それでも何も言わず、次の命令を受け取ると、そのまま王宮を出ていった。


 カレリアは唇を噛んだ。


「……あの子を、どこまで使い潰すつもりなの」


 ミアは何も答えなかった。


 カレリアは椅子から立ち上がり、窓辺へ向かった。


 冬の日は短い。


 外はすでに暗くなっている。


 その中で、隣の棟だけが妙に明るかった。


 いくつもの窓から灯りが漏れ、時折、笑い声まで聞こえてくる。


 ガレスやイーワンたちの会合だった。


 ラレドの戦い以降、こうした集まりが増えている。


 会合を開くこと自体を、どうこう言うつもりはない。


 貴族同士で話すことも必要だろう。人を集めれば、多少の酒や料理を出すこともある。


 だが、街では今日食べる麦にも困っている者がいる。


 地方では、冬を越せるかどうかで苦しんでいる住民がいる。


「……またパーティーですかね」


 ミアも窓の外を見ていた。


「ええ」


 カレリアは短く答えた。


 しばらくして、ミアが思い出したように口を開く。


「貨幣が増発されると聞きました」


「国庫が空なのよ」


 諸侯から納められるはずの貢納金が、予定通り入ってこない。


 どの領主も、自領の苦境を理由に納付を遅らせている。


 以前ならば、パドゥーラやラレドから多額の貢納金が入っていた。


 それも、もうない。


 今では王宮ですら、役人や兵士への給金が遅れることがあった。


 払う金がない。


 だから貨幣を増やす。


 それで、とりあえず給金は払える。


 だが、物資そのものが増えるわけではない。


「これで給金の遅れは、多少解消されると思うわ」


「それなら……いいことなのでしょうか」


 カレリアはすぐには答えなかった。


「……何もしないよりはね」


 窓の向こうから、また笑い声が聞こえた。


 ◇


『エル日記』 279年3月13日。


 私たちはノースジョウにいた。


 食料不足による住民たちの蜂起を止めにきた。


 この冬は食料不足が酷い。


 ラレドの戦いのあと、パドゥーラから入ってくる物資が減ったことも大きいらしい。


 住民たちは説得に応じてくれた。


 助かった。


挿絵(By みてみん)


 ◇


『エル日記』 279年4月8日。


 今度は、コク領の寄子であるガール子爵領で住民たちが蜂起した。


 今、貨幣価値の低下が酷い。


 物資が足りない。


 それに加えて貨幣が増えている。


 すでに貨幣は、あまり役に立たなくなっている。


 今回はコク城から食料の供出が間に合った。


 蜂起は止められた。


 ◇


『エル日記』 279年5月17日。


 リブロフ南部の男爵領で、住民と領兵の間に小競り合いが起こった。


 大きな戦いにならずに済んだ。


 冬小麦の収穫前なのに、すでに麦を担保にした借り入れが増えている。


 食料の不足が酷い。


 兵士たちの食事にも事欠くようになってきた。


 ◇


『エル日記』 279年6月3日。


 冬小麦の収穫が始まった。


 これで少しは良くなると思っていた。


 でも、あまり変わらなかった。


 借り入れていた分の返済が始まり、収穫した麦をそのまま持っていかれる農家も多い。そこからさらに、領主たちは軍のための供出を求めている。


 兵士たちの食事も減った。


 ◇


 その日の昼、野営地の外へ出ていた兵士が数人戻ってきた。


 両手には野草を抱えている。


 別の兵士は布袋を持っていた。


「将軍、取ってきました」


「なに?」


「食べられる草です。それと、こっちはバッタです」


 袋の中で、小さな虫が動いていた。


 もう一人の兵士は、数匹のカエルをぶら下げている。


「こいつも焼けば食えます」


「そう」


「将軍の分は、こっちに取ってありますから」


「私は大丈夫だから」


 そう言うと、兵士が困った顔をした。


「でも、将軍も昨日ほとんど食べてないでしょう」


 エルは少し黙った。


 言われてみれば、そうだったような気がする。


「……みんなは?」


「食いますよ」


「じゃあ、みんなで食べる」


 小さな焚き火が作られた。


 野草を煮て、カエルを焼き、バッタも火に通した。


 味を付ける塩も、もうあまり残っていない。


 エルは兵士たちの輪の中へ座った。


「将軍、どうぞ」


 差し出された椀を受け取る。


「ありがとう」


「いえ」


「私が言う方」


 兵士が少しだけ笑った。


挿絵(By みてみん)


 ◇


『エル日記』 279年6月3日。


 私の部隊では、まだ脱走者は出ていない。


 コクから連れてきた兵たちは、よく耐えてくれている。


 でも、他の部隊は酷いらしい。


 給金をもらっても食料が買えず、故郷へ帰ってしまう兵が増えている。


 部隊によっては、夜のうちに何十人もいなくなったところもあると聞いた。


 ◇


『エル日記』 279年7月21日。


 ノースジョウやリブロフ南部から、パドゥーラ領へ逃げる住民が増えている。


 家も畑も捨てていくらしい。


 国境に近い村では、人が減っている。


 以前ノースジョウで話をした人たちの中にも、もういなくなった人がいた。


 パドゥーラへ行ったと聞いた。


 止めることはできなかった。


 最近、あまり眠れていない。


 眠っても夜中に何度か目が覚める。


 まだ暗いので、そのまま報告書を読むことが増えた。


 食事もあまり入らない。


 食べなければいけないことはわかっているけれど、少し食べると、もういらなくなる。


 月のものも、ずっと不順になっている。


 ミアがいたら、たぶん怒られる。


 でも、今はやることが多い。


 ◇


 279年8月。


 元老院会議。


「エルの部隊をコクへ戻します」


 カレリアがそう告げると、ガレスが顔を上げた。


「なぜだ」


「休養が必要だからです」


「まだ動ける」


「動けるからといって、休ませなくていい理由にはなりません」


 カレリアは机の上へ一枚の報告書を置いた。


「ノースジョウ、ラレド、コク方面。半年近く各地を回り続けています。兵士の食事すら満足に用意できていない。それでも脱走者がいないから問題はないと?」


「コクの精鋭だ。当然だろう」


「当然?」


 カレリアの声が低くなった。


「兵士も人間です」


 議場が静かになった。


「エルの部隊にはコク出身者が多い。今なら任地からコクまでも近い。一度帰郷させます。兵を休ませ、装備も点検する。それが必要よ」


「部隊はそれでいい」


 ガレスが答えた。


「だが、エル=リージェットまで休ませる必要はない。他にも任せたい仕事がある」


 カレリアはガレスを見た。


「あるわ」


「何?」


「エルにも休養が必要だと言っているの」


「本人から、そのような申し出は受けていない」


「言うわけがないでしょう」


 カレリアの声が議場に響いた。


「あの子は何を命じてもやるわ。食べられなくても、眠れなくても、自分から休ませてくれなんて言わない。だからといって、いつまでも使っていいことにはならないでしょう」


「しかし――」


「半年以上よ」


 カレリアは遮った。


「あの子が最後に王宮へ戻ってきたときの姿を見たでしょう。あれ以上、どこまで痩せさせるつもりなの」


 ガレスは黙った。


「部隊はコクへ戻します。兵には帰郷を許可する。エルにも休暇を与える」


 カレリアはそこで一度言葉を切った。


「もう十分でしょう」


 それ以上、異論を挟ませなかった。


 ◇


 279年8月21日。


 休暇をもらった。


 私だけではなく、部隊全体がしばらく休むことになった。


 コク出身の兵が多いので、みんな家へ帰れる。


 よかった。


 コクへ入ると、途中から兵士たちは少しずつ隊列を離れていった。


 迎えに来た家族がいた。


 子供を抱き上げる人もいた。


 母親に叩かれている人もいた。


 奥さんに抱きつかれて、困った顔をしている人もいた。


 みんな嬉しそうだった。


 最後まで残った兵士たちとも、城へ向かう道の途中で別れた。


「将軍も休んでくださいよ」


「うん」


「本当にですよ」


「わかってる」


「ちゃんと食べてください」


「……うん」


 何度も念を押された。


 私はコク城へ向かった。


 父の領地を訪れるのは、久しぶりだった。

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