第6話 エル日記
◇
279年2月。
リービッヒ王宮。
夕刻を過ぎても、王女カレリアの執務室には灯りが残っていた。
机の上には各地から届けられた報告書が積み上がっている。その一枚を手に取り、カレリアは眉間に皺を寄せながら、並んだ数字を追っていた。
麦の価格が上がっている。
鉄も高い。
塩、油、布、薪。生活に必要なものは、ほとんど例外なく値上がりしていた。とりわけ上昇が激しいのは、これまでパドゥーラから大量に入っていた品々だった。
ラレドの戦い以降、両国の交易量は大きく減少している。
ガレスやイーワンたちは、パドゥーラ産の安価な商品が国内産業を圧迫しているとして、関税の引き上げを強硬に主張した。
当然、パドゥーラも黙ってはいなかった。
リービッヒからの商品に同様の措置を取り、一部の物資については交易そのものを制限した。
その結果が、目の前の数字だった。
「街の人たちは、今年は厳しいと申しているみたいです」
傍らに立つミアが言った。
「そうでしょうね」
カレリアは報告書から目を離さなかった。
「こうなることは、ある程度わかっていたわ。今はしのぎきるしかない」
そう答えながらも、自分の言葉がひどく頼りなく聞こえた。
カレリアが元老院の会議へ本格的に出席するようになって、一年半ほどになる。
王女として王宮に暮らしているだけでは知らなかったことを、そこでいくつも知った。そして知れば知るほど、リービッヒという国の経済状態が、自分が思っていた以上に悪いことも理解した。
だからこそ行われたのが、パドゥーラ侵攻計画だった。
パドゥーラを占領し、その農地と生産設備を回収する。
そこで生み出される食料と工業製品を使い、疲弊したリービッヒを立て直す。
乾坤一擲の作戦だった。
そして、失敗した。
エルとヴァンが立てた作戦そのものに、大きな問題はなかった。
当初は予定通りだった。
上陸は成功した。パドゥーラ市街も確保した。
そこから先で、すべてがおかしくなった。
アンスバッハをはじめとする門閥貴族たち。
あの者たちなど使わなければ。
もし、あそこにモンドがいれば――。
カレリアはそこで考えるのをやめ、報告書を机へ戻した。
いまさら考えても意味はない。
終わった戦いは戻らない。
その後、ラレドの戦いを制したことで、広がりかけていた諸侯の離反そのものは収まった。
だが、それだけだった。
勝ったからといって国庫に金が増えたわけではない。
畑から麦が増えたわけでもない。
途絶えた交易が戻ったわけでもなかった。
カレリアは最後の報告書まで目を通すと、深く息を吐いた。
「ところで、エルは?」
「今はノースジョウ方面の巡察に回られています」
「また……」
「はい」
ミアも表情を曇らせた。
ラレドの戦いが終わってから、エルはほとんど王都に戻っていない。
ノースジョウへ行き、ラレドへ戻り、また別の領地へ向かう。住民の不満が高まれば慰撫に向かい、領主と住民の間で問題が起これば仲裁に入る。
休まないのではない。
休ませてもらえていなかった。
ガレスやイーワンたちは、いまだエルを疑っている。
ラレドでリービッヒのために戦い、勝利に貢献した。それでも疑念が消えたわけではない。
ならば働かせればいい。
忠誠を示せ。
そう言わんばかりに、次から次へと任務を与えている。
最後に王宮へ戻ってきたときのエルを、カレリアは思い出した。
もともと細い子だった。
その細い身体が、以前よりもさらにか細く見えた。
頬も痩せ、顔色もよくない。目の下には薄く隈まで浮かんでいた。
それでも何も言わず、次の命令を受け取ると、そのまま王宮を出ていった。
カレリアは唇を噛んだ。
「……あの子を、どこまで使い潰すつもりなの」
ミアは何も答えなかった。
カレリアは椅子から立ち上がり、窓辺へ向かった。
冬の日は短い。
外はすでに暗くなっている。
その中で、隣の棟だけが妙に明るかった。
いくつもの窓から灯りが漏れ、時折、笑い声まで聞こえてくる。
ガレスやイーワンたちの会合だった。
ラレドの戦い以降、こうした集まりが増えている。
会合を開くこと自体を、どうこう言うつもりはない。
貴族同士で話すことも必要だろう。人を集めれば、多少の酒や料理を出すこともある。
だが、街では今日食べる麦にも困っている者がいる。
地方では、冬を越せるかどうかで苦しんでいる住民がいる。
「……またパーティーですかね」
ミアも窓の外を見ていた。
「ええ」
カレリアは短く答えた。
しばらくして、ミアが思い出したように口を開く。
「貨幣が増発されると聞きました」
「国庫が空なのよ」
諸侯から納められるはずの貢納金が、予定通り入ってこない。
どの領主も、自領の苦境を理由に納付を遅らせている。
以前ならば、パドゥーラやラレドから多額の貢納金が入っていた。
それも、もうない。
今では王宮ですら、役人や兵士への給金が遅れることがあった。
払う金がない。
だから貨幣を増やす。
それで、とりあえず給金は払える。
だが、物資そのものが増えるわけではない。
「これで給金の遅れは、多少解消されると思うわ」
「それなら……いいことなのでしょうか」
カレリアはすぐには答えなかった。
「……何もしないよりはね」
窓の向こうから、また笑い声が聞こえた。
◇
『エル日記』 279年3月13日。
私たちはノースジョウにいた。
食料不足による住民たちの蜂起を止めにきた。
この冬は食料不足が酷い。
ラレドの戦いのあと、パドゥーラから入ってくる物資が減ったことも大きいらしい。
住民たちは説得に応じてくれた。
助かった。
◇
『エル日記』 279年4月8日。
今度は、コク領の寄子であるガール子爵領で住民たちが蜂起した。
今、貨幣価値の低下が酷い。
物資が足りない。
それに加えて貨幣が増えている。
すでに貨幣は、あまり役に立たなくなっている。
今回はコク城から食料の供出が間に合った。
蜂起は止められた。
◇
『エル日記』 279年5月17日。
リブロフ南部の男爵領で、住民と領兵の間に小競り合いが起こった。
大きな戦いにならずに済んだ。
冬小麦の収穫前なのに、すでに麦を担保にした借り入れが増えている。
食料の不足が酷い。
兵士たちの食事にも事欠くようになってきた。
◇
『エル日記』 279年6月3日。
冬小麦の収穫が始まった。
これで少しは良くなると思っていた。
でも、あまり変わらなかった。
借り入れていた分の返済が始まり、収穫した麦をそのまま持っていかれる農家も多い。そこからさらに、領主たちは軍のための供出を求めている。
兵士たちの食事も減った。
◇
その日の昼、野営地の外へ出ていた兵士が数人戻ってきた。
両手には野草を抱えている。
別の兵士は布袋を持っていた。
「将軍、取ってきました」
「なに?」
「食べられる草です。それと、こっちはバッタです」
袋の中で、小さな虫が動いていた。
もう一人の兵士は、数匹のカエルをぶら下げている。
「こいつも焼けば食えます」
「そう」
「将軍の分は、こっちに取ってありますから」
「私は大丈夫だから」
そう言うと、兵士が困った顔をした。
「でも、将軍も昨日ほとんど食べてないでしょう」
エルは少し黙った。
言われてみれば、そうだったような気がする。
「……みんなは?」
「食いますよ」
「じゃあ、みんなで食べる」
小さな焚き火が作られた。
野草を煮て、カエルを焼き、バッタも火に通した。
味を付ける塩も、もうあまり残っていない。
エルは兵士たちの輪の中へ座った。
「将軍、どうぞ」
差し出された椀を受け取る。
「ありがとう」
「いえ」
「私が言う方」
兵士が少しだけ笑った。
◇
『エル日記』 279年6月3日。
私の部隊では、まだ脱走者は出ていない。
コクから連れてきた兵たちは、よく耐えてくれている。
でも、他の部隊は酷いらしい。
給金をもらっても食料が買えず、故郷へ帰ってしまう兵が増えている。
部隊によっては、夜のうちに何十人もいなくなったところもあると聞いた。
◇
『エル日記』 279年7月21日。
ノースジョウやリブロフ南部から、パドゥーラ領へ逃げる住民が増えている。
家も畑も捨てていくらしい。
国境に近い村では、人が減っている。
以前ノースジョウで話をした人たちの中にも、もういなくなった人がいた。
パドゥーラへ行ったと聞いた。
止めることはできなかった。
最近、あまり眠れていない。
眠っても夜中に何度か目が覚める。
まだ暗いので、そのまま報告書を読むことが増えた。
食事もあまり入らない。
食べなければいけないことはわかっているけれど、少し食べると、もういらなくなる。
月のものも、ずっと不順になっている。
ミアがいたら、たぶん怒られる。
でも、今はやることが多い。
◇
279年8月。
元老院会議。
「エルの部隊をコクへ戻します」
カレリアがそう告げると、ガレスが顔を上げた。
「なぜだ」
「休養が必要だからです」
「まだ動ける」
「動けるからといって、休ませなくていい理由にはなりません」
カレリアは机の上へ一枚の報告書を置いた。
「ノースジョウ、ラレド、コク方面。半年近く各地を回り続けています。兵士の食事すら満足に用意できていない。それでも脱走者がいないから問題はないと?」
「コクの精鋭だ。当然だろう」
「当然?」
カレリアの声が低くなった。
「兵士も人間です」
議場が静かになった。
「エルの部隊にはコク出身者が多い。今なら任地からコクまでも近い。一度帰郷させます。兵を休ませ、装備も点検する。それが必要よ」
「部隊はそれでいい」
ガレスが答えた。
「だが、エル=リージェットまで休ませる必要はない。他にも任せたい仕事がある」
カレリアはガレスを見た。
「あるわ」
「何?」
「エルにも休養が必要だと言っているの」
「本人から、そのような申し出は受けていない」
「言うわけがないでしょう」
カレリアの声が議場に響いた。
「あの子は何を命じてもやるわ。食べられなくても、眠れなくても、自分から休ませてくれなんて言わない。だからといって、いつまでも使っていいことにはならないでしょう」
「しかし――」
「半年以上よ」
カレリアは遮った。
「あの子が最後に王宮へ戻ってきたときの姿を見たでしょう。あれ以上、どこまで痩せさせるつもりなの」
ガレスは黙った。
「部隊はコクへ戻します。兵には帰郷を許可する。エルにも休暇を与える」
カレリアはそこで一度言葉を切った。
「もう十分でしょう」
それ以上、異論を挟ませなかった。
◇
279年8月21日。
休暇をもらった。
私だけではなく、部隊全体がしばらく休むことになった。
コク出身の兵が多いので、みんな家へ帰れる。
よかった。
コクへ入ると、途中から兵士たちは少しずつ隊列を離れていった。
迎えに来た家族がいた。
子供を抱き上げる人もいた。
母親に叩かれている人もいた。
奥さんに抱きつかれて、困った顔をしている人もいた。
みんな嬉しそうだった。
最後まで残った兵士たちとも、城へ向かう道の途中で別れた。
「将軍も休んでくださいよ」
「うん」
「本当にですよ」
「わかってる」
「ちゃんと食べてください」
「……うん」
何度も念を押された。
私はコク城へ向かった。
父の領地を訪れるのは、久しぶりだった。




