第3話 ルートビッヒの憂鬱(後)
「……なくはないわよ」
マリーは少しだけ間を置いて答えた。
ルートビッヒが茶器を置く。
「その間は何だ」
「別に」
「来るのか、来ないのか」
「だから、なくはないって言ってるでしょう」
ケルン公爵。
東部辺境領統治責任者。
そして、アレン=フォン=ケルン唯一の実子。
肩書だけを見れば、マリーに婚儀の話が来ない方がおかしい。ただし、それほど多くもなかった。
その理由については、本人以外の多くが理解している。
「もう少し公爵らしく振る舞われれば、増えると思いますが」
ホフマンが言った。
「またそれ?」
「事実です」
「別に増えなくていいわよ」
マリーは不満そうに茶を飲んだ。
外見だけを見れば、決して悪くはない。むしろ、きちんと化粧を施し、髪を整えて正装させれば、それなりに目を引く容姿をしていることは、先日の叙任式で証明されたばかりである。
問題は、本人にその状態を維持する意思がまるでないことだった。
髪はすぐに好き勝手な方向へ跳ね、化粧にも興味がない。公爵になった後も領民の中へ平然と入り込み、時として何をしているのか理解に苦しむ行動に出る。
長年付き合ってきたケルンの民ですら呆れかえることがあるほどである。。
「でも、私よりあなたの方が問題じゃない?」
マリーは向かいの男を見た。
「俺が?」
「今年で三十三でしょう」
「ああ」
「『ああ』じゃないわよ。その歳なら、そろそろ婚儀の一つくらい考えるのが普通でしょう。ましてあなた、皇族なんだから」
「私もそう思うのですが」
ホフマンがすぐに同意した。
「ルートビッヒ様が、ことごとくお断りになられますので」
「必要を感じん」
「必要を感じるとか、そういう問題じゃないでしょう」
「では、どういう問題だ」
「立場の問題よ。皇族で、次席宰相で、東部辺境軍司令官。そのうえ三十三にもなって独身。そりゃあ周りも放っておかないわよ」
ルートビッヒは少し考えると、隣に座るホフマンへ視線を向けた。
「それなら、ホフが結婚したら考えてやろう」
「なぜ私なのですか」
「お前も独身だろう」
「私はルートビッヒ様より先にするわけにはいきません」
「なら、この話は終わりだな」
「終わってないわよ」
マリーが即座に割って入った。
「何で二人で押しつけ合ってるのよ」
「押しつけてはいない」
「押しつけていますね」
ホフマンは自分が押しつけられた側だとでも言いたげだった。
マリーは今度はそちらを見る。
「そういえばホフは? 相手がいるの?」
「おりません」
「即答ね」
「仕事が忙しすぎて、そのような暇はありませんので」
マリーは黙った。
また仕事だった。
「それに、姉上がお子を授かったのであれば、ことさら私が急ぐ必要もありません」
「そういう問題?」
「少なくとも、私はそう考えております」
一人は仕事以外にほとんど興味がなく、三十三になっても婚儀を片っ端から断っている。
もう一人は、その主人より先に結婚する気はなく、そもそも仕事が忙しすぎて相手を探す暇すらない。
――まったく、この主従は。
マリーは心の中で呆れた。
「それで俺の話は終わりだな」
「だから終わってないって言ってるでしょう」
「俺は大変なんだ」
ルートビッヒが何気なく言った。
マリーが眉を寄せる。
「嫌味?」
「何がだ」
「私にはあんまり話が来ないのに、自分はたくさん来るって自慢?」
「そんなつもりはない」
ルートビッヒは本当に理解できていないらしい。
「興味がないので断っている。この前など、どこぞの令嬢が部屋の前にいた」
「部屋の前?」
「ああ」
「何してたの?」
「知らん。俺を待っていたらしい」
「それは……まあ、あなたならあるでしょうね」
次席宰相。
東部辺境軍司令官。
皇籍を回復したハイマン家の皇族。
しかも、本人がどう思っているかはともかく、ルートビッヒは容姿にも恵まれている。
「しかし、俺の何がいいのか分からんな」
「顔と地位じゃない?」
「身も蓋もないな」
「次席宰相にしてルルーシュ一の貴公子。美男子。令嬢たちからは大人気よ」
マリーは呆れたように言った。
それについては、先日の叙任式の後に開かれた祝宴で嫌というほど聞かされている。
『ルートビッヒ様とは、昔からお親しいのですか?』
『普段はどのようなお方なのです?』
『ルートビッヒ様がお好きなものは?』
そして、とりわけ多かったのが。
『ルートビッヒ様は、どのような女性がお好みなのでしょう?』
知らない。
そんなものをマリーが知るはずもない。
ただ、そのとき真っ先に頭に浮かんだ答えはあった。
――仕事じゃない?
思わずそう答えそうになった。
だが、仕事は女性ではない。
危うく口に出す寸前で気づき、適当に笑って誤魔化したのだが、考えてみれば十年以上の付き合いになる自分ですら、ルートビッヒが特定の女に熱を上げているところなど一度も見たことがなかった。
「相手の一人くらい選べばいいじゃない」
「興味がない」
「本当に仕事しか興味ないのね……」
「何か言ったか?」
「何でもない」
「さらに先日は、男性ということもありました」
ホフマンが何事もなかったように付け加えた。
マリーが止まった。
「……男性?」
「はい」
「男がルートビッヒの部屋の前で待ってたの?」
「そのようです」
マリーはゆっくりとルートビッヒを見る。
ルートビッヒはわずかに眉を寄せた。
「流石にその趣味はない」
「そこは即答なのね」
「当然だろう」
「まあ、そうでしょうけど」
マリーは肩をすくめた。
「でも、そこまで人気があるなら、なおさら婚姻くらい考えた方がいいんじゃない?」
「俺の血など、一切価値がないのにな」
唐突に、ルートビッヒが言った。
マリーの表情がわずかに変わった。
「死ねば藻屑と消える。その程度だ」
ハイマンの血。
皇族の血。
世間の人間は、そこに大きな価値を見いだす。
だが、ルートビッヒ本人には、その感覚が理解できなかった。
生まれだけで何かが保証されるわけではない。血が軍を率いるわけでもなければ、国を豊かにするわけでもない。
「まあ、あなたの立場なら致し方ないわ」
「せんないことだ」
ルートビッヒはそれで話を終わらせようとした。
ところが。
「婚儀の話なら、私もこの前困ったのよ」
マリーが思い出したように言った。
「何かあったのか」
「兄さんたちがね」
嫌そうな顔をした。
「勝手なことを考えたのよ」
◇
少し前。
ケルン。
オスワルト、ジーン、バルナ、ブルーノ。
アレン五兄弟のうち、マリーを除く四人が一堂に会していた。
珍しいことではない。四人とも東部辺境軍の中枢を担う者であり、軍務について話し合う機会はいくらでもある。
だが、この日の議題は軍事ではなかった。
より深刻なものであった。
「このままだと、ケルン公爵家はマリーの代で途絶える」
話を切り出したのはオスワルトだった。
四人の間に重い沈黙が落ちた。
アレンには五人の子がいる。ただし、実子はマリー一人だけ。残る四人は、戦災孤児などをアレンが引き取り、我が子同然に育てた者たちである。
家族として何の違いもない。
だが、ケルン公爵家の継承となれば事情は別だった。
「婿を取ることは必要だろうな」
ブルーノが静かに言った。
「必要だからといって、適当な男を婿に取るわけにはいかん」
オスワルトが即座に返した。
「当然だ」
ジーンも頷いた。
「可愛いマリーに、どこの馬の骨とも知れん男を押しつけるなど、そんな無体なことができるか」
「そこには異論はない」
「俺もだ」
結局、四人とも同じだった。
ケルン公爵家の存続は重要である。だからといって、そのために妹の人生を犠牲にするつもりもない。
「しかし、マリーが納得する男となると、相当難しいぞ」
バルナが腕を組んだ。
「能力がない奴は駄目だろうな」
「家柄だけの男も嫌う」
「頭が悪ければ三日で追い出すんじゃないか?」
「三日も保つか?」
四人が考え込む。
「研究者肌の男なんかはどうだ?」
ブルーノが言った。
「話は合いそうだ」
「駄目だろ」
バルナが即座に否定した。
「筋肉がない」
「……ああ」
「少なくともジーンに一騎打ちで勝てるくらいでないとな」
妙なところで全員が納得した。
東部辺境は、騎兵を中心とした武の土地である。
そこで育ったマリーも、本人は研究者肌でありながら、男を見る基準には妙に東部辺境的なところがあった。頭が良いだけでは足りない。弱い男は論外。
本人は至極当然の価値観として受け入れている。
比較対象とされたジーンとて参謀ではあるが、それなりの武芸者だった。
「面倒な奴だな」
「お前が言うな、バルナ」
「俺じゃないだろ」
「誰が見てもお前が一番近い」
「どういう意味だ」
ともかく。
家格がある。
実力がある。
頭も切れる。
軍人としても強い。
マリーの能力を理解できる。
ケルン公爵家を利用しようとしない。
そして何より、四人が妹を任せても構わないと思える男。
そこまで条件を並べると、候補はほとんど残らなかった。
「……一人いるな」
ジーンが言った。
三人が顔を上げる。
「ルートビッヒ殿下か」
オスワルトが答えた。
「俺もそう思った」
誰も反対しなかった。
ルートビッヒ。
家格については言うまでもない。皇族である。
実力についても、四人の誰一人として疑っていない。レンヌを陥落させ、第三次コスタ戦役ではリービッヒ軍を壊滅寸前まで追い込み、継承戦争ではフィリップを皇帝へ押し上げた。
四兄弟自身が、東部辺境でも屈指の実力者である。
だからこそ、自分たちより上の男など簡単には認めない。
だが、ルートビッヒならば何一つ文句がなかった。
「政治的にも申し分ない」
ブルーノが言った。
それも大きかった。
現在のルートビッヒの権力基盤は東部辺境にある。彼自身、アレンへの恩を決して忘れておらず、東部辺境軍を率いて中央で出世していくことは、そのまま東部辺境の発言力向上につながっていた。
だが、恩義だけで結ばれた関係が永遠に続く保証などない。
人は変わる。
世代も変わる。
ルートビッヒがマリーと結ばれれば、話は別だった。
帝国中枢とケルン公爵家が、直接結びつくことになる。ルートビッヒがどれほど高い地位へ上っても、東部辺境との関係は個人的な恩義だけではなくなる。
「東部にとっては、これ以上ない縁談ではある」
オスワルトが言った。
「だからといって、政治のためだけにマリーへ押しつけるつもりはないぞ」
「分かっている」
ジーンが答えた。
「可愛いマリーを、本人の了承もなしに政治的に利用する。そんなことはできん。それは全員同じだろう」
誰も否定しなかった。
しばらく考えていたバルナが、やがて口を開いた。
「ただ」
「何だ」
「マリーは、ルートビッヒ殿下のことを憎からず思っている節はある」
三人の視線が集まった。
「そうなのか?」
「たぶんな」
バルナはマリーと最も距離が近い。戦傷を負った後には、半ば強制的に彼女の戦術研究会へ参加させられ、嫌というほど付き合わされてきた。
「少なくとも、ほかの男とは扱いが違う。殿下には妙に遠慮がないし、自分の能力を評価されることについては素直に喜んでいる」
「好きなのか?」
「そこまでは知らん。そもそもマリーに、男を好きになるって概念があるのかも怪しいが」
バルナは首を振った。
「ただ、嫌ってはいない。むしろ一般論から言えば、好いている可能性はある」
「ならば、話をしてみる価値はあるな」
オスワルトが結論を出した。
問題は。
「誰が言う?」
四人が黙った。
最初に口を開いたのはオスワルトだった。
「俺は、そういう話は苦手だ。そもそも政略の話だ。俺の本業ではない」
「長男だろう」
「戦なら行く。先陣を切ることは厭わん」
「これは戦じゃない」
「だから苦手だと言っている」
三人の視線がジーンへ移った。
「俺は嫌だ」
即答だった。
「なぜだ」
「可愛いマリーに『男と結婚しろ』などという話を俺の口からできるわけがない。マリーが結婚するということを考えることすら苦痛だというのに」
「お前、普段あれだけ女と遊んでいるのにそれはないだろう」
「それとこれとは別だ」
「八人も子供がいる男の台詞か?」
「マリーは特別だ」
胸を張って言い切った。
次に視線がブルーノへ向かう。
ブルーノは少し考えた。
「俺が言うと、たぶん深刻な話になりすぎる」
「……それはあるな」
「ああ」
「否定できん」
三人が同意する。
「おい」
バルナが嫌な予感を覚えた。
全員がこちらを見ている。
「待て」
「バルナ」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないぞ」
「言わなくても分かる」
オスワルトが真顔で言った。
「お前が行け」
「なぜ俺だ」
「お前なら最悪、冗談で済ませられる」
「どういう評価なんだ、それは」
「適任だ」
「どこがだ!」
こうして、東部辺境軍鉄騎兵第二大隊長バルナに新たな任務が与えられた。
軍務ではない。
妹に男を薦めるという、本人にとっては敵陣へ突撃する方がまだ楽な任務だった。
◇
「……ルートビッヒ?」
話を聞いたマリーは、数秒後に笑った。
「ないない」
「やっぱりそうなるよな」
バルナもあっさり頷いた。
「何で兄さんたち、そんなこと考えたのよ」
「一応、ケルン公爵家の将来を考えてだな」
「余計なお世話よ」
「まあ、そう言うな」
バルナは頭を掻いた。
「条件だけなら、殿下以上はいないだろう」
「それはそうだけど」
マリーもそこは否定しなかった。
「家格は問題ない。能力もある。信用もできる。ケルンを乗っ取ろうなんて絶対に考えない。政治的にも東部辺境には最高でしょうね」
「そこまで分かっていて駄目なのか?」
「それと結婚は別でしょう」
「そういうものか」
「そういうものよ。それにあちら側の気持ちもあるわ」
マリーはあっさり答えたが、少し考えてから続けた。
「でも、一緒にいて楽ではあるわね」
「ほう」
「変な意味じゃないわよ」
「分かってる」
「あの人、私を女だからって見ないでしょう」
バルナは黙って聞く。
「アレンの娘だからでも、ケルン公爵だからでもない。私が何をできるかで評価する」
マリー自身、それを気に入っていた。
女だから戦場へ出るな。
女だから家にいろ。
女だからこう振る舞え。
生まれてから何度も聞かされてきた。
ルートビッヒは違った。
能力があれば使う。
なければ使わない。
それだけだった。
「たぶん、私をそんなふうに見る男は、あの人くらいね」
「じゃあ好いてるんじゃないか?」
「だから、それと結婚は違うの。それに、それって好いているの?」
「分からんな」
「分からなくていいわよ」
「そうか」
バルナはあっさり引き下がった。
元より無理に説得する気などない。
「じゃあ、兄貴たちには駄目だったと言っておく」
「そうして」
「悪かったな」
「別にいいわよ。バル兄も押しつけられたんでしょう?」
「なぜ分かった」
「兄さんたちのことくらい分かるわよ」
それで、その話は終わった。
少なくともマリーは、そう思っていた。
◇
「――ということがあったのよ」
皇都ルルーシュ。
宰相府。
マリーの話を聞き終えたルートビッヒは、しばらく黙っていた。
ホフマンも何も言わない。
「兄さんたちも余計なことするでしょう?」
「……」
「何よ」
ルートビッヒは少し考えた後、口を開いた。
「確かに一理ある」
マリーが止まった。
「一理ある?」
「ああ」
「何が?」
「その話だ」
「どの話?」
「俺とお前の婚儀だ」
マリーはルートビッヒを見た。
「……は?」
「分かった。その話、受けよう」
「受ける?」
「ああ」
「何を?」
「だから、お前との婚儀だ」
数秒の沈黙が落ちた。
「ちょっと待って」
「何だ」
「あなた、今自分で何を言ってるか分かってる?」
「分かっている」
「私と結婚するって言ってるのよ?」
「ああ」
「何でそうなるのよ」
「条件が悪くない」
「そういう問題なの?」
「お前が先ほど自分で言っただろう」
ルートビッヒは淡々と整理した。
「東部辺境との関係を固定できる。ケルン公爵家との結びつきも強くなる。お前の統治へ俺が余計な口を出す必要もないし、お前も俺の仕事へ口を出す必要はない」
「……」
「それに婚儀の話を断る手間も減る」
「そこ?」
「重要だ。仕事の邪魔が減る」
「あなたらしいわね」
「お前も似たようなものだろう」
「まあ……」
否定しきれなかった。
少し前まで「結婚する気がない」と言っていた男である。その理由の一つが、婚儀の申し込みを断る作業そのものが面倒だからというのだから、呆れるほかない。
マリーは腕を組んだ。
「でも、私はあなたと夫婦らしいことをするつもりなんてないわよ」
「構わん」
「構わないの?」
「ああ」
ルートビッヒは平然としていた。
「嫌というなら、偽装で構わん」
「偽装……」
「外から見れば婚約者。しばらくはそれで十分だ。普段は今まで通りでいい」
マリーは考えた。
自分はケルンを治める。
ルートビッヒは皇都と東部辺境軍を行き来する。
互いに好きな仕事をして、必要な場だけ婚約者として並ぶ。
考えてみれば、今までと大して変わらない。
「……まあ、それならいいわ」
ホフマンが二人を見た。
「よろしいのですか、マリー様」
「偽装でしょう?」
「ルートビッヒ様も、それでよろしいので?」
「ああ」
「……そうですか」
ホフマンには何かがおかしいように思えた。
「というより、それは偽装婚姻というより、普通の政略婚ではありませんか?」
二人がホフマンを見る。
「違うの?」
マリーが聞く。
「法的に婚姻されるのであれば」
「同じようなものだろう」
ルートビッヒが言った。
「かなり違うと思いますが」
「問題ない」
「問題ないならよいのですが……」
ホフマンはそれ以上言うのをやめた。
この二人に婚姻とは何かを説明することそのものが、ひどく面倒な気がしてきた。
「では契約成立だな」
ルートビッヒが言った。
「契約なのね」
「他に何と呼ぶ」
「婚約とかあるでしょう」
「同じことだ」
「やっぱり違うと思うわ」
そう言いながらも、マリー自身それほど気にしてはいなかった。
ルートビッヒがホフマンを見る。
「ホフ」
「はい」
「お前が証人になれ」
「私が証人ですか?」
「ああ。今の話を聞いていただろう」
「聞いてはおりますが」
「なら十分だ」
ホフマンは困ったように二人を見比べた。
「後になって、言った言わないの話になっても私は知りませんよ」
「ならん」
「ならないわよ」
二人がほぼ同時に答えた。
ホフマンは静かに息を吐く。
「……承知いたしました」
こうして。
帝国次席宰相ルートビッヒ=ハイマンと、ケルン公爵マリーナ=フォン=ケルンの婚約は決まった。
帝国政府の会議でもなければ、東部辺境諸侯による正式な協議でもない。
宰相府の一室で、茶を飲みながら。
当人たちの認識としては、ほとんど契約書一枚を取り交わすような調子で。
◇
数日後。
その報せがケルンへ届くと、街はちょっとした祭り騒ぎになった。
帝国次席宰相にして東部辺境軍司令官、ルートビッヒ。
そして、ケルン公爵マリーナ=フォン=ケルン。
幼い頃から苦楽をともにし、幾度もの戦乱を生き抜いてきた英雄と令嬢の婚約である。
酒場では祝いの酒が振る舞われ、市場では早くも婚儀の日取りについて勝手な予想が飛び交った。
東部辺境の諸侯たちも歓迎した。
ルートビッヒが東部辺境に深い恩義を感じていることは、誰もが知っている。
だが、人の恩義だけを頼りにした関係が永遠に続く保証はない。
ケルン公爵であるマリーと結ばれるのであれば話は違う。
今や帝国中枢にまで上り詰めたルートビッヒと、東部辺境との関係がより強固なものとなる。将来、その間に子が生まれれば、ハイマン家とケルン公爵家の血そのものが結びつくことになる。
東部に生きる者たちにとって、これ以上ないほど喜ばしい婚姻だった。
もちろん、領民の中にも多少の疑念はあった。
本当に、あのマリー様が結婚するのか。
公爵になってからも相変わらず髪をぼさぼさにし、町へ出れば何かしら妙なことを始める、あの「へんてこ姫」が。
まともな婚姻生活を送れるのだろうか。
そんな声がまったくなかったわけではない。
だが、相手はルートビッヒである。
「あの二人なら、まあ何とかなるだろう」
最後には、多くの者がそこへ落ち着いた。
長く二人を知っている者ほど、そう考えた。
それでも慶事であることに変わりはない。
ケルンは久しぶりの明るい話題に沸いた。
ただし。
当の二人が、この婚約をどこまで本気で婚約だと思っているのか。
それを知る者は、皇都にいたホフマンただ一人であった。




